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杉本俊介 (2013) Why Be Moral?問題に対する二人称的観点からの応答 ※学会報告原稿

0. はじめに

初回は(ちょっとハードルを下げて)、学会報告の要約をすることにします。春休みにコースガードの邦訳本「義務とアイデンティティ倫理学」を読んで、あまりにも何もわからず絶望したので、少し易しめの解説論文から入って理解していこうと思った次第です。今のところコースガードについては「普通の分析系の政治哲学者よりはちょっぴり詳しい」レベルを目指していきたいので、最終的には未邦訳の単著もいくつか要約・考察を載せていけるレベルまでもっていきたいですね。

 

1. 報告の要約 ※()内の数字は杉本報告における頁数

ネーゲル:三人称的観点

ーWhy be moral?に対して「倫理学の基本原理」を超えてさらなる原理によって「正当化」し、有意味に答えることはできない。基本原理を「解釈」し、その動機付けの力や「逃れられなさ」の説明を発見できるだけである。(2)

利他主義を動機づけるのは「他の人々の利益」であり、どの行為者にも当てはまるはずの「客観的理由」=「行為者中立的な理由」である。こうした理由を取ることは、他者を自己と全く同等である人物として捉え、また自己を他者と同等である「誰か」として捉える非人称的観点(impersonal standpoint)によって要求される。(3-4)

ーここからネーゲルは、全ての行為者相対的な理由はそれに対応する行為者中立的理由を持つはずであり、行為者相対的でしかない理由はありえない、というテーゼを導く。ネーゲルは客観性の観点がいかに我々の動機を変え、制約するかを示すことで倫理の客観性を擁護する。⇒規範的実在論(normative realism)の立場。(4-5)

ーしかし倫理が基づくものの中には自律的理由、義務論的理由、責務的理由など行為者相対的な理由もある。もしこうした理由が実在するならば、なぜ自律・義務論・責務を我々が価値づけるのかといった問いに対して一人称的観点が必要になる。(6)

 

コースガード:一人称的観点

ネーゲルの「規範的実在論」は実質的実在論にも、手続き的実在論にも解釈できる。実質的実在論に立てば、行為者中立的な価値・理由は、それを価値づける我々がいなくとも世界に存在する。手続き的実在論に立てば、行為者中立的な価値・理由も、行為者とは独立に存在するわけではなく、間主観的なものになる(Objective RealismとIntersubjectivismの区別)。(6)

ー内在的に規範的なものが存在するという形而上学的な見解は、「我々が実際に義務を持つという確信によってサポートされ」ていなければならないからこそ、客観的な価値の存在に訴えることで、我々の確信をサポートすることはできない。⇒ネーゲルの実質的実在論を批判。非人称的観点からはWhy should I be moral?の問いに答えることができず、一人称的観点が必要となる。(6)

ーWhy be moral?問題=規範性の問い(the normative question)は、「道徳が突きつける要求の正当化を求める行為の一人称的立場(the first-personal position)」から立てられ、その答えはその人自身のアイデンティティの感覚に深く訴えるものでなければならない。近代道徳哲学はこの問いへの応答として理解可能。(7)

ー人間の心は本質的に反省的で、反省に基づき「衝動」が「理由」の資格を持つかを判断できる。この「反省的認証(reflective endorsement)」の方法は外界の原理を発見する作業とは異なる。自由意志は自己立法しなければならず(=自律)、動機が理由と言えるか?という問いは、その動機を自己に対する法則としてよいかという問いとなる。(8)

ーコースガードは「定言命法」と「道徳法則」を区別し、気まぐれ者の格律や、利己主義者の格律のように「目的の国の法則」となりえないものも「定言命法」は充たしうるとする。意志が自らの法則を立てるのは、熟慮の観点の内側から見ると、それを選択する私が何者かを表現することになる。気まぐれ者の格律⇒情念の奴隷、利己主義者の格律⇒自己利益の奉仕者といった具合に。コースガードはこれを「実践的アイデンティティ」と呼ぶが、行為の中には実践的アイデンティティの根本的な部分を失い、死ぬこと以上に悪い行為も存在する。反省を重ねてそうした行為を却下することで、その行為をすべきでない義務が生じる。(8-9)

ー人は実践的アイデンティティに関する様々な捉え方(conceptions)を持つが、その根底には道徳的存在者として、自分自身を人間として価値づけるアイデンティティがあり、これを表現する法則が道徳法則である。このアイデンティティを喪失する恐れへの応答こそが道徳的義務である。(9)

ネーゲルの批判:コースガードが正しければwbm問題は「自分のことを誰だと思うかの問題 a matter of who you think you are」に過ぎないことになる。仲間を裏切りなら死を選ぶ、といった判断の背後にあるのが自分のパーソナリティの表現に還元されるのはあまりに安っぽく、本当の説明は、何がその判断(裏切り)を耐えられなくするのか?にあるはず。そしてそれは非一人称的理由である。

ーコースガードの立場からは、やはり「自分自身を目的の国の市民だとみなす人物の観点から from the perspective of the someone who regards himself as a Citizen of the Kingdom of Ends」裏切るべきでない「理由」になり、ただ裏切れば仲間が死ぬだろうという予測から=「どこでもないところから from nowhere」ひとりでに「理由」が生じるのではないと反論する。一方でネーゲルの立場からは、「自分自身を目的の国の市民だとみなす人物の観点」は「自分のことを誰だと思うか」の観点に過ぎないと答えられるだろう。この違いはネーゲルが実質的実在論に、コースガードが手続き的実在論に立つところから生じる。(9-10)

 

ダーウォル:二人称的観点

 ー二人称的観点:「あなたと私がお互いの行為や意志に関しての要求を行い、それを認めるときに我々の取るパースペクティブ」。あなたが私にある行為を要求するとき、あなたはその要求を行う権威(authority)を前提にし(presuppose)、なぜその行為を私がしなければならないかの理由=二人称的理由(second-personal reason)を私に差し向ける(address)。これは行為者相対的な理由であるが、相手に対して行為を強制しているのではなく、相手が自分の意志でその行為をするように導く点で、相手を自由な(free)行為者とみなし、相手が自分自身の行為について責任を持つ(accountable for)ことを前提にする。行為者相対的だという点で、二人称的理由は全て一人称的理由でもあるが、一人称的理由の中には二人称的でないものもある。(10-11)

ー第一に道徳的義務の規範性(wbm問題への応答)は二人称的責任(second-personal accountability)によって説明される。責任を持つということは、道徳的要請という観念の一部であり、自由で理性的な行為者同士は互いに責任を負い合う(=「対等責任としての道徳」)。道徳的観点は根本的に間主観的。(11-12)

ー第二に、二人称的な理由の差し向けを可能にする諸概念どうしの相互関係の輪を広げることが道徳の規範性を示す。(12-13)

1)二人称的理由の差し向けは、相手が差し向けられた理由により自分を自由で理性的に規定できることを前提する。

2)二人称的要請の差し向けは、差し向けられた相手が従う責任を持つことを前提する。

3)二人称的理由の差し向けは、差し向けられた相手が理由を合理的に受け入れることを前提する。したがって、理由は特定の規範的関係に立つものに差し向けられるが、その者はその規範的関係にたまたま立つ者(a person who happens to stand in that normative relation)とみなされ、二人称的正当化は常に、究極的には自由で理性的なものとして相手を正当化する。

4)要求の差し向けは、自由で理性的な人格としてある人物を尊敬する仕方で関係を持つ正当な仕方と、その者を不当に強制することとの区別を前提する。

5)二人称的理由の差し向けは、差し向けられる相手が自由で理性的な存在として二人称的権威を持ち、その結果、差し向けるものと差し向けられるものは互いに要求し合う共通の権威を分かち合うことを前提する。

6)二人称的理由の差し向けは、共通した基本的な人格の尊厳を前提する。(∵3,5)

7)二人称的理由の差し向けは、意志の自律(二人称的能力)を前提する。(∵6)

ー第三に、二人称的理由の実在を否定することはできない。手続き的実在論から見ると、定言命法は、自由で理性的な人物の中の一人であるパースペクティブから何を理性的に意志できるかという考慮を含んだ構成的手続きであり、これは二人称的な観点である。実質的実在論から見ると、反応的態度に二人称的理由の実在の証拠を見ることができる。(13)

ーコースガードにおいては反省する自己と非反省的な自己の間の一人称的な二人称的関係が分析の中心になるが、ダーウォルにおいては一人称的観点に還元されない二人称的観点が基本になる。コースガードも一人称的観点に還元されない二人称的観点が生じる場面を「個人的な人間関係」という実践的アイデンティティの一形態として認めるが、道徳的関係とは区別される。(14)

 

杉本の見解 (※理由付けの仕方がよく分かってない)

ー非人称的観点と一人称的観点は互いに還元できない形で認められる。ネーゲルとコースガードの間で何をすべきかについての対立があるわけではないし、あったとしても規範倫理学の領域でやればよい。一人称的観点と二人称的観点だけでは「一般的な善に関心を持つべき」という通俗道徳の領域をカバーできないため、非人称的価値は必要になる。(???)(15-16)

ー仲間への裏切りの事例からわかるように、これをネーゲルの非人称的理由で説明するには無理があるし、コースガードも「自分を誰だと思うか問題」で解決してしまい不適切。二人称的理由が必要。(16)

ーある人称における観点が道徳的とみなすことを、別の観点からは不道徳だとみなす場合がある(マフィアの一人称的観点)。この場合、複数の観点を認め、全てを考慮して(all things considered)すべき理由の有無を判断すればよい。(17)

 

2. 感想・考察

 ー一人称、二人称、三人称的観点のそれぞれについて程よい長さで分かりやすくまとめてくれているのでありがたい。この分野に不慣れなうちはしばらく何度も参照して確認していきたい論文。

ーしかし最後の筆者のまとめはよく分からないところが多い。特定の道徳的なものに対する直観を所与として、それを正当化するためにアドホックに複数の観点を採用しているように思える。また、ダーウォル自身も含めて二人称的観点から要求されることを狭く捉えすぎなのではないか?二人称的な立場からでも善(とくにpersonal value)が配慮の対象になることは導けるだろうし(たとえばヘアのような立場をそう近づけて位置付け直すことは不可能ではない気もする。これはヘアをちゃんと勉強してないから適当だけど、相互に善を配慮し合うような形で二人称的に正当化はできそう)、各観点が実際に何を要求しうるかはもう少し吟味したほうがよさそう。

ーコースガードのアイデンティティの話も、急に道徳的アイデンティティが根底にあるとか言い始めるのがよく分からない(これは「義務とアイデンティティ倫理学」を読んだ時も感じた)。ダーウォルの二人称的正当化も論証が結構怪しい感じはする。他者に何らかの要求をすること=他者の自由・理性を承認って言うのも、少なくとも論証抜きに成り立たない前提では?

ー各論はどうしても雑な要約になっているので、細かく原典にあたってみる必要がありそう。個人的な関心としては、こういった話をどこかで政治哲学に接合させたいが、どうも距離を感じる。政治哲学者がたまに「私の主張はメタ倫理学上のコミットメントを負わない」とか言っていることがあるが、それが成り立つためにもそれぞれの異なる立場を越境可能な前提や方法論が必要になりそう。あるいは、真剣にメタ倫理学上の問いに向き合ってから政治哲学をやるか。

ーwbm問題と(政治的な決定主体が一義的には指令の対象となるであろう)正義の問題は異なるものではあるが、こうした倫理学における規範性の源泉を問う問いがどういう仕方でどの程度政治哲学に関わるかを考えるのも今後の課題。

 

3. 次に読むべきもの

コースガード「義務とアイデンティティ倫理学」、ダーウォル「二人称観点の倫理学」、ネーゲル「どこでもないところからの眺め」

⇒今回主題的に扱われた原典たち。邦訳が出ているので助かる。

Korsgaard (1983) "Two distinctions in Goodness"

⇒政治哲学のゼミで一度紹介された。

メタ倫理学の教科書や論文集など

⇒A. Millerとかvan Roojenとかちょっと見てみようかな。佐藤先生のやつも再読。

 

4. おわりに

20p前後の日本語論文に対して、メモが丁寧すぎる気はしますね。次回以降はもう少し簡単にまとめようと思います。4月からは(ちゃんと更新が続けば…ですが)、授業でいくつか英語文献を輪読していく関係で、移民正義論(論文集のMigration in Political Theory, Wellman and ColeのDebating the Ethics of Immigration, MillerのStrangers in Our Midst)、倫理学の基本文献(Korsgaard, Scanlon, Herman, Hare, Sloteほか)、政治哲学(Oxford Studies in Political Philosophyシリーズ)などから読んだものをメモしていく予定でいます。なんだか週200pずつくらい読むことになりそうで、他の授業や留学準備と並行していくことを考えると、英弱チンパンとしてはかなり辛いところです。ですが留学・院進の準備と思ってこのセメスターは限界に挑戦してみたいですね。