明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

赤林・児玉ほか (2018) 入門・倫理学③

続いて第Ⅲ部はメタ倫理学です。佐藤先生の入門書を少し前に読んだはずなのですが、すっかり忘れてしまっていますね。こちらもよくまとまっているパートで、面白かったです。第Ⅳ部は政治哲学で、自分自身の専門の関係もあってある程度分かっている内容が多かったので、この本については最後のメモになるんじゃないかと思います。

 

第Ⅲ部 序論(児玉聡)

ーメタ倫理学:倫理的議論の性質に関して観察者として考えるときに生じる第二階の問いであり、「そもそも価値とは何か」「そもそも道徳的義務とは何か」を扱い、科学に対する科学哲学の位置と類比的に捉えられる。(149-151)

ー道徳の特徴:①客観性:客観的な答えがあるかのように扱われている。②規範性:道徳判断は行為の理由になり、別の事情がない限り判断と行為の間に一貫性が有ることが期待される。(151-153)

ー動機付けのヒューム主義:人間の心理状態は①信念:世界がどうあるかを表し、世界の実際の在り方との一致・不一致によって真偽を問える点で客観性を持つ、②欲求:自分を含めた世界がどうあって欲しいかを表し、真偽を問えない主観的なものである、という2つに分かれる。行為の動機づけにあたっては信念ではなく欲求が必要であるため、科学のような「信念」に属する議論は客観的でありえても、人を動機づけられない点で規範的になりえず、「欲求」に属する議論は規範的であっても、客観的ではない。

⇒ヒューム主義の議論を踏まえると、客観的かつ規範的という道徳の特徴は両立しないのではないか?と問われることになる。(153-155)

ー3つの主要な立場:①道徳的実在論×認知主義:世界という客体の側に客観的な道徳的事実が存在し、人はそれを認知することで道徳的信念を形成し、道徳判断を行う。a)客観的かつ規範的な道徳的事実とはどんなものか? b)どのようにそれを認知するか?の2点に応答することが課題。②反実在論×非認知主義:道徳判断は単なる欲求の表明であり、ゆえに行為者の動機づけを説明する。a)道徳が主観的・相対的にならないか? b)日常的な道徳的営みが客観的に見えるのはなぜか?の2つの問いに応答することが課題。③反ヒューム主義:道徳の議論は信念でも欲求でもなく、客観的かつ規範的な人間の心理状態に関わる。(153-156)

 

8章 実在論・認知主義(奈良雅俊)

自然主義:道徳的事実は自然的事実に還元できる。非自然主義:道徳的事実は非自然的で独特な事実である。道徳的事実は直観によって認知される。認知主義:道徳的判断は客観的事実を記述しており、事実に照らして真偽を問える。認知主義へのコミットは実在論へのコミットも表す。(159-160)

自然主義:①実在論②認知主義③還元主義の特徴を持つ。善いということを快苦のような自然的性質に還元して定義できる。道徳判断は事実判断と同様に実証的に検証できる。(160-162)

自然主義的誤謬(ムーアによる批判):①善という分析不可能な性質を自然的性質によって定義しようとする誤謬と、②非自然的な性質である善を自然的なものによって定義しようとする誤謬からなる。②については「開かれた問い論法」によってテストされる。「善い」を「性質Pを持っていること」と定義しても、「Pを持つXは善いか」と正当に問うことができ、有意味な質問である以上、その定義は正しくない。(163-165)

ー非自然主義:①実在論②認知主義③直観主義からなる。開かれた問い論法から、善は自然的性質に還元できない独特な(sui generis)性質であると分かる。これは直観によって認知される。(165-166)

ーマッキー「特異性に基づく論証」:道徳的事実は客観的に指令的であり、行為の理由を与える。しかし①非自然主義実在論が主張するような、この世界の他のものとは全く異なる非常に不可思議な実体や性質が実在するという奇妙な存在論的主張や、その実体に客観的で指令的な要請が組み込まれていると考えるのは受容しがたい。②そうした実体があってもそれを「特別な直観」によって認知するというのには説得力がない。③自然的性質に道徳的性質が付随していると考えるのも奇妙だし、その付随性を人が認知できると考えるのも説得的でなく、むしろ道徳的性質を主観的反応と理解する方が単純で分かりやすい。(168-170)

ー動機付けのヒューム主義:「この行為が道徳的に正しい」という認知・信念それ自体は一切動機付けを伴わないため、道徳の規範性がなくなる。(170)

自然主義実在論は①ムーアの「自然主義的誤謬」による批判②動機付けのヒューム主義による批判の2つに応答しなければならない。これを避けて非自然主義実在論を擁護したい場合、マッキーの批判に応答しなければならない。(171)

自然主義的誤謬への応答:「善は分析不可能」「善は非自然的性質」というムーアの前提は完全に論点先取(フランケナ)。開かれた問い論法についても、自然主義は「Xは善い」と「XはPを持つ」を同じ意味(synonymous)であり、トートロジーになるとは主張しておらず、ただ「善い」と「Pを持つ」は同一の(identical)対象を指示していると述べているだけである。したがって、論理的な誤謬があるわけではない。(171-172)

ーヒューム主義への応答:動機付けの外在主義=道徳判断を真であると受け入れたからと言って、その行為を行う動機付けが起こるとは限らないという考え方。これによって規範性の問いを回避できるが、一方、人が持つ欲求に関わらずある行為を要求する「定言命法」のような道徳の客観性を失いかねない。(172-173)

⇒動機付けのヒューム主義を所与とすると、実在論・認知主義は非自然主義×内在主義を取って道徳判断の規範性を説明するか、自然主義×外在主義を取って道徳判断の規範性を説明するしかない。しかし前者は神秘的な形而上学的コミットメントを負わざるを得ず、後者は客観性の問いについて窮地に立たされる。(173-174)

 

9章 反実在論・非認知主義(児玉聡)

ーエアの情動説:論理実証主義において、有意味な命題は言葉の意味のみによって真偽が決まる分析判断と、事実に照らして真偽を問える検証可能な総合判断に分かれ、経験的な検証が不可能な総合判断(神は存在する、等)は無意味な判断とされる。エアは功利主義や主観主義をムーアの開かれた問い論法のような形で退け、非自然主義実在論については知性的直観が一致しないことを挙げつつ、経験的検証が不可能であるため、論理実証主義の立場からは認められないとした。したがって道徳判断は真偽を問える記述ではなく、判断者の感情や態度を表出したものに過ぎないという非認知主義を展開した。道徳の規範性(動機付けの力)をよく説明する一方、道徳の客観性(客観的に見える性質)を説明できない。(178-181)

ースティーブンソンの情動説:言葉の用法は①信念を記述し伝える「記述的用法」②感情を表明し、人の態度や行動に変更を迫る「動態的用法」に分けられ、言葉の意味は①記述的意味②情動的意味に分けられる(例えば、「防犯カメラ」「監視カメラ」は同一の対象を記述するが、後者には非難の感情が表明されている)。このため意見の不一致についても①信念における不一致②態度における不一致に分けられ、前者が合理的議論によって解決可能であるのに対し、後者は解決不可能である。道徳的判断の本質は情動的意味にあり、聞き手の態度に影響を与えようとする点にある。これも規範性についての説明を与える一方、客観性について説明しない。(181-184)

ーヘアの普遍的指令説:道徳判断は①指令的意味を持つ。道徳の規範性は、道徳後に指令性によって説明される。②普遍化可能性を持つ。同様の状況で矛盾した判断を下すことはできず、これは通常の命令文と道徳判断を区別する。③付随性を持つ。道徳判断は一定の記述可能な特徴に付随して生起している(記述的意味に付随して、指令的意味が生ずるため、非認知主義の立場から道徳の客観性を説明できる)。Xの持つPという特徴に付随して「Xは善い」と判断したとき(付随性)、別のYがPを持っていれば「Yも善い」と判断することが論理的に要求される(普遍化可能性)。(184-186)

ーオースティンの言語行為論:①発話内行為:命名行為のように発話に置いて行為が遂行される場合。②発話媒介行為:「撃て!」と言って誰かに銃を撃たせるときのように、発話を通じて行為を遂行する場合。スティーブンソンの情動説では道徳判断は他者の態度に影響を与えようとしていることから「発話媒介行為」に、ヘアの普遍的指令説は指令という行為をしていることから「発話内行為」にあたる。(184-185)

反実在論・非認知主義の問題点:①相対主義:ヘアの立場に立っても、判断者の内部での一貫性が要求されるだけで、異個人間の意見の不一致までは解決を保障しない。②道徳の客観性を説明できない:日常的な道徳判断においては少なくとも道徳的性質の実在を前提にしており、非認知主義はそれを説明しない。また投影説(次章)などによって、客観的に見えてしまう理由が説明されたとしても、そうした説明理論によって道徳の客観性についての我々の信頼が掘り崩されるのではないかという不安が生じる。

反実在論・非認知主義はまず道徳の規範性を説明するところから始まり、それによって失ってしまった客観性の問いをどれだけ説明できるかについて理論を精緻化してきたと言える。(186-192)

ーマッキーの理論:①反実在論:各国、各地域で異なる道徳的営みの際を説明するために、道徳的価値の存在を仮定する必要がないという「相対性に基づく議論」と、世界に存在する他のものと全く異なる特異な性質で、その認識には特別な道徳感覚を必要とするような奇妙な実在を想定することはもっともらしくないという「特異性に基づく議論」によって補強される。②錯誤理論:エアとは異なり、道徳判断は真偽を問える有意味な判断ではあるが、そうした道徳的性質は実在しないので常に偽であるとし、人々は実際に実在しないものをさも実在しているかのように語るという錯誤を犯しているとする。③投影説:人間関係を規制するために存在する道徳は、時に個人の欲求に反して命令を行うため、一定の権威がなければならず、人は本来主観的な価値を「客観化(objectify)」して語ることで道徳に権威を与えているに過ぎない。つまり道徳は、人が自らの欲求や感情を世界の側に投影したものに過ぎないとする。

⇒エアに連なる非認知主義は、言語分析によって論争をしていたが、マッキーは実在論や認識論の問いに正面から取り組んだ。(189-191)

 

10章 メタ倫理学の現在(林芳紀)

 ー現代のメタ倫理学は①道徳の客観性②道徳の規範性③動機付けのヒューム主義の3つを同時に整合させられないトリレンマに直面しており、3つのうち1つを否定することによって議論を分類できる。(195-196)

反実在論:客観性(客観的に見える性質)の説明を課題とする。ブラックバーンの準実在論では①マッキーと同様に投影説を受け入れる、②錯誤理論についてはそれを真とすると、そうした用語法や思考を放棄しなければならなくなることから受け入れない、③非認知主義の立場から日常の道徳的営みを説明する、という路線を取る。この路線の中でブラックバーンはa)日常における実在論的な思考や表現を非認知主義の立場から説明できること、b)これまでの道徳的営みを保持できること、の2つの問いにも答える。(196-198)

a)道徳的な表現は、実際には人々の態度やニーズを表す表現として理解可能(「快楽や是認があっても○○は不正だ」という言明は、「○○が不正かどうかについては、快楽や是認だけでなく△△にも注意しなければならない」という「態度」として理解可能)。また、非認知主義の批判として「~~が不正ならば、ーーも不正だ」といった、複雑な文法構造に組み込まれた道徳判断について適切に説明できないというものがあったが(ギーチ=フレーゲ問題)、これも文全体では「~~を否認しながらーーを許す」ことへの否認の表明として理解可能である。(198-199)

b)この投影説への危惧を①道徳心理の説明に関する問題とすると、これはしつけや教育による獲得で説明できる。②義務に対して絶対的で、外的な感じを今後も抱き続ける「べき」なのかについての問いと解釈する場合(こちらの方が根本的な問題)、ブラックバーンは義務の感覚を捨て去ることは人にとって必ずしも合理的でないと説明する(例えばユーモアについて、それを面白いと感じるのはただの自分自身の感情的反応の投影だと分かっても、ユーモアの感覚をなくすことが合理的だとはならない)。これは「道徳的義務の感覚を人は保持し続けたいと思うだろう」という二階の欲求に関する記述として理解できる。(200-202)

マクダウェルの投影説批判・感受性理論:投影説においては道徳的価値が二次性質(secondary quality)として存在しうるという可能性が排除されている。二次性質とは、事物に備わる物理的性質が我々の近くに何らかの作用を及ぼすことで、初めてその事物に備わっているとみなされるような性質を指す(例えば、色には、「赤い」という色覚経験を生み出す能力を持った物理的性質が備わっているだけで、初めから「赤さ」という性質そのものは実在していない)。投影説は、我々の主観に依存する道徳的事実=二次性質を世界の側に投影し、客観的に実在する一次性質かのように扱っていることを暴露することで反実在論の立場に立つが、マクダウェルはこれも「実在」として扱ってよいのではないか?と投げかける。実際、色の事例では特定の条件下では等しく「赤さ」を経験するし、人間の側で自由に経験を作り上げることができない点で客観的である。(202-204)

ー「相対性に基づく議論」への応答:この時点では「道徳的事実」という客観的な実在を仮定しなくても経験を説明できる、という批判には応答できない。マクダウェルは①説明のために必要とされない、というだけでは「~~は赤い」という事実そのものが否定されることにはならない。②色の場合とは違い、道徳の事例では単に因果的な説明をするだけでは不十分。人が「~~は不正だ」という道徳的判断を下すとき、単に特定の事態が特定の態度を引き起こしたと考えるのではなく、(内的な視点からは)その事態がそうした態度を引き起こすに値する(merit)ものとして理解されている。投影説の説明では「当該の反応を妥当とするような性質」の実在がはじめから否定されているが、マクダウェルは感受性を発揮している当人の観点の内側から道徳の営みを説明するため、これを「実在」するものと扱う。(204-206)

 

自然主義実在論自然主義的誤謬の問題と規範性の問題に応答する必要がある。これに対して①非還元主義②外在主義による応答が試みられている。

①ブリンクの非還元主義的自然主義:ムーアの批判は道徳的価値の定義の問題にすぎず、道徳的価値が定義以外の何らかの関係によって自然的性質と結びつけられうることを否定できない。道徳的性質が、ある自然的性質の出現に依存する形で生じる(付随する)ことが示されればよいため、道徳的性質の実在が自然的な世界の状態と結びつけられて説明され、かつ自然主義的誤謬を避けられる。マッキーの立場からすれば、付随性を持つものでも道徳的価値は神秘的になるという批判になるが、物理学上の性質に化学上の性質が付随し、物理学的性質に還元できないからと言って化学上の性質は神秘的だとはならないように、道徳的性質も神秘的などと批判されるいわれはない。(207-209)

②外在主義:マッキーの特異性に基づく議論は内在主義を採用する道徳実在論の批判に過ぎず、外在主義には当てはまらない。また道徳の規範性については、他人の幸福への配慮が自己利益につながるなどといった経験的事実がある限り、道徳的に行為することへの動機付けは可能であり、日常の道徳的営みの説明はできる。(210-212)

ーハーマン・チャレンジ:道徳的経験や道徳的判断が生じた経緯の説明の中に道徳的性質は現れてこない以上、そうした実在についての仮定は不要ではないかという問い。オッカムの剃刀に知られるように、ある事実が実在すると考える最善の理由になるのは、現象の説明のためにその事実を仮定する必要があるときだが、道徳外的な事実のみによって十分説明可能である。(212-213)

スタージョンによる反論:むしろ道徳的事実の仮定は道徳的経験や判断の説明に対してのみならず、道徳外的な事実を説明する上でも必要である。たとえば「ヒトラーはクズ」といった道徳判断を下す際、実際に「ヒトラーがクズ」であるという事実によってこうした判断が生じた理由を適切に説明できる。仮に道徳的事実に関する仮定が、道徳判断が生じた理由の説明にとって完全に無関係ならば、「ヒトラーはクズではない」というのが事実だったとしても、われわれは「ヒトラーはクズだ」と判断するはずだ、と考えるのは困難だし、それどころかヒトラーホロコーストを行った事実も説明できない。道徳的に不正だと判断されるような行為が生じた経緯の説明についても道徳的事実は必要ないというのはおかしい。(214-215)

※さすがに論点先取しすぎでは?別に当時の社会的背景、政治状況、本人のパーソナリティ(これについては道徳を媒介しないでも、特定の行為や態度への傾向性という形で説明できる)等で十分に説明がつく。また、そもそもハーマンの主張は「現象Aは、道徳的事実の仮定なしに説明できる」というものになるはずで、それに対して「道徳的事実α(これは平均人の直観に照らすと偽だと判断されやすい)を仮定すると、現象Aを説明できない(ように同じく平均人の直観に照らすと判断される)。」と言ったところで、ハーマンの当初の主張を覆すことにはなっていないと思うがどうなんだろうか?ハーマンの考えからすると、そもそも「道徳的事実α」を仮定する時点で最善の説明じゃなくなっちゃうじゃん?(僕のメモ)

⇒ハーマン周辺の論争では、道徳的現象と道徳外的現象を含んだ我々の世界を最もよく説明するのに道徳的事実の存在を仮定し、言及する必要性が有るのか否かが問われることになる。(215)

 

 ー非自然主義実在論実在論と内在主義の両方を維持しつつ、動機付けのヒューム主義を否定する戦略を取る。(215-216)

 ーマクダウェルの混成理論:道徳判断はある状況が特定の態度に値することを指す認知的判断である。①道徳的信念を受け入れている行為者が、当該の道徳的要求に従って行為する動機付けを持つかどうか考えるうえで重要なのは、そう行為する欲求があるかどうかではなく、その行為が遂行されるべき状況に関する事柄が行為者本人に十分理解されているかどうかである。行為者当人にとっての行為の理由は、行為者当人の観点から説明する限り欲求に関する想定を省略可能であり、欲求は「まったく帰結的な仕方で帰属される欲求(desire ascribed in purely consequential way)」に過ぎず、「独立に理解できる欲求(independently intelligible desire)」ではない。有徳な行為についても、行為者の置かれた状況を特徴づけ、その状況に置かれた行為者の観点からすれば有徳な行為をすることが好ましい、と示されればよい。(216-219)

※~~の状況下で道徳の要求に従って行為することが、行為者の観点から見て「このましい」というのがどういう状態を指すのか不明で、ここがおそらく最も大事なポイントではないか。「(主観的に)このましく感じるだろう」の意だと、事実上これは欲求に還元されるだろうし、「このましい」を道徳的概念と紐づけると、「道徳的要求に従うことが、道徳的だ」と言ったトートロジーになるため問題を回避できない。とすると、「このましい」は、何らかの形で「自己利益にかなう」の意だとできるかもしれないが、「自己利益にかなう」がなぜ動機付けになるかは結局欲求の説明を媒介する必要があるのではないか?とりあえず、説明が不十分な部分だと思うし、ちゃんと定式化していくとおかしな説明になってしまうのでは?

②有徳な人の場合、道徳的な理由が認知されている限り、同時に存在する道徳外的理由は考慮もされず、欲求を媒介せずに自然と道徳的な行為に動機づけられる。動機付けられない人は、行為の理由を正しく認知しながら動機づけられなかったのではなく、そもそも適切に行為の理由を認知できていないことになる。純粋に認知的な動機付けが有徳な人にのみ認められる。人間には異なる動機付けの様態が存在するという理解をする点で、混成理論と呼ばれる。(219-221)

※キモい。

ーダンシ―の純粋理論:マクダウェルは有徳でない人の動機付けについてヒューム主義の枠組みを継承し、全く同種のはずの認知的状態が、ある場面では行為を動機づけ、ある場面では行為を動機づけないというような統一性を欠いた説明をしており、ダンシ―は誰もが純粋に認知的に動機づけられるとする理論を立てようとする。(222-223)

①信念と欲求の役割に関する組み換え:信念と欲求の間には厳格な役割の相違と分担が存在する、というヒューム主義の主張を否定し、認知主義的観点からとらえ直す。何らかの意図的な行為が遂行される背景の、形式的条件として行為者が「世界のあるがままの状況についての表象」と「自らの行為の遂行の結果、生み出される世界の状況についての表象」の2つを持ち合わせている必要があり、動機付けはこの二つの表象の間のギャップを認知する信念によって生じる。この場合の欲求とは、上記の仕方で行為者が動機づけられているという心理状態を指すものであり、欲求の有無と動機付けの有無は結果的に符合するが、欲求が動機付けを生み出すというヒューム主義は成立しない。(223-225)

②動機付けの様態に関する組み換え:ヒューム主義では動機付けの在り方は単一的に理解されるが、本来動機付けを生み出す心理状態については、a)「必然的に動機づける状態」と「偶然的に動機づける状態」の区分、b)「(動機付けが生じる場合に必ず)それだけで動機づけるような状態(ほかの心理状態の助けが不要)」と「それだけでは動機付けない状態(ほかの心理状態の助けが必要)」の区分があり、ヒューム主義はこれらを暗黙裡に融合させ「それだけで必然的に動機づける欲求」という強力なテーゼを導出している。このため、ヒュームが気付いていない「偶然的に動機づける」心理状態だが「それだけで動機づける」というカテゴリー(本来的に動機づける状態)があり、これは認知的な動機付けにあたる。※表2を参照。(225-226)

ーしかしながら、その動機付け自体は行為者が持つその他の背景的信念に依存する「偶然的」なものに過ぎないから、道徳的理由や性質は状況依存的、偶然的なものとなり、その帰結として道徳判断の普遍化可能性を否定するパティキュラリズムが導かれる。(227)

 

 

<コメント>

客観性、規範性、動機付けのヒューム主義の間のトリレンマを如何に解消するか、という観点からメタ倫理学を整理しているのが分かりやすくてよいですね。こうしてまとめてみたときに、自分の中には「自分が内的に道徳的議論というものをどう受け取り、どう接しているか」という直観からはなるべく距離を置いて道徳を理解したいという思いがあるように感じました。あと一部界隈では「マクダウェルみたいなカスをありがたがってどうする」という金言(?)が有名ですが、自分もどうやらそれに同意してしまう側のようですね。ただ、二次性質としての道徳的価値という話など部分的に受容できる(検討に値する)ポイントはあるかなと思います。

政治哲学をやる上でこれらの問題をどう扱うかは定かではないですが、少なくとも行為者として想定されるのが(主には)個人ではなく、政府であるという点などから、動機付けの問題を少なくともパラレルには語れないだろう点には注意が出来そうです。ちょっとこの辺は既に触れている人も少しはいそうですし、勉強してみたいですね。

ちなみに今のところブログを宣伝とかはしてないですが記事が十分に溜まってきたらTwitterあたりで紹介しようと思います。今もbioに貼ってはいますが、それだけでも見てる人が若干はいるので驚きです。春休みも残り少ないですが、明日からはMigration in Political Theoryと政治思想史の本を並行して読みたいと思っています。