明日から本気出す

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岸見太一 (2013) 移民選別とデモクラシー

岸見太一さんの論文で、デモクラシーの境界問題に対する強制原理アプローチの観点から移民排除権について扱ったものです。

 

導入

ー入管実践の正統性の問題は民主主義の境界問題に関わる。政治的権利が特定の集団に付与される理由を明確にする必要性がある。この論文では法的強制の有無に着目する強制原理アプローチに焦点を当て、強制原理から入管実践の正統性を支持するネーゲル、ミラーと同原理からそれに反対するアビザデの間の論争を検討し、「強制」概念についての論争を自由概念として再定式化する。(253)

ー移住希望者には難民を含めない。難民は生存などの基本的ニーズから、別の根拠による正当化ができる領域である。(253)

 

①強制原理について

「民主的権威の決定に服することを日常的に強いられている人は、そうした決定において発現する権限を有している」(Miller 2009: 219)

ー法的強制力を行使されている人々の範囲と、決定過程に含まれるべき人々の範囲が一致する。(254)

ー強制は個人の自由に対する法的制約であり、個人の自由はリベラルが共有する重要な価値であるため、強制力行使の正統性については特別の正当化=政治的権利の付与を伴う民主的な正当化を要する。この含意として、1)何が強制とみなされるかがわかれば、誰に対して強制力が行使されており、誰に対して政治的権利の付与が要請されるかも特定できる (Valentini 2012:128)。そのため「強制」の特定が肝となる。2)強制原理は自由の価値を基礎に置くため、アプローチは自由概念にも関わる。そのため、以下の論争は自由の諸構想をめぐるものとして理解できる。(254-255)

 

②自由概念について(255-257)

ー選択の幅としての自由と独立としての自由という二つの構想を検討する。

a)選択の幅としての自由(freedom as option-availability)

ー自由は、他者の干渉に服することなく選択できる様々な選択肢の関数である(Valentini 2012:157)。バーリンにおける消極的自由に相当する。単なる選択肢の数だけではなく、質=選択肢がその人にとって持つ重要性にも依存する(Miller 1983:67)。独立としての自由との違いで重要なのは、自由は「実際の世界における」他者の干渉がないために、その人に開かれている選択肢の関数であること(Valentini 2012:159)。

ーMillerはこの立場。

b)独立としての自由(freedom as independence)

ー選択肢の数と質だけでなく、他者との関係性が自由において考慮される。実際の干渉だけでなく、他者からの(潜在的な)干渉を効果的に防ぐ機構がないことも自由の障害となる。実際の状況で生じる他者の干渉の有無だけでなく、潜在的に起こりうる状況のそれぞれにおいて他者の干渉を免れるかどうかが重要である(Valentini2012:161)。しばしば政治的権利付与の重要性が強調される。

ーアビザデはこの立場を支持。

ー積極的自由においては「自己支配」を導く政治参加自体に内在的価値があるとみなされるが、独立としての自由においては単に他者からの干渉を効果的に防ぐための道具的価値があるとみなされる。

 

③入管実践は正統:選択の幅としての自由と法的強制(257-260)

ー入管実践が法的強制の行使とみなせるのは自明のように思われる(Tan 2004:176)が、別の方法によってネーゲルとミラーは入管実践の正統性を論じる。

a)ネーゲル:共同起草者

ー政治的権利付与の要請は、強制原理が着目する法的強制力への服従という事実に加え、強制力を行使する法の制定に共同起草者として関与する制度的関係が存在しているという条件も満たされる必要がある。つまり政治的権利付与は、こうした制度的関係にある人々の間=主権国家の成員同士の間だけでしか要請されない。

ー移住希望者は共同起草者としての要件を満たしていないため、政治的権利も付与されない。そのため入管実践も正統である。

⇒法的強制力を行使されていながら、法の共同起草者としての地位が認められていない人(過酷な植民地統治下にある人々)の地位をうまく扱えない。ネーゲルの議論に基づけば、こうした人々に政治的権利を認めないことも正統になる。

b)ミラー:強制と妨害の区別

ー入管実践は「強制」ではないとみなす点で根本的な批判であり、この論点は「選択の幅としての自由」の概念と関連する。強制は特定の行為をするよう無理強いすること(forcing)を意味し、妨害は他の選択肢を残したまま特定の行為をしないように無理強いすることである。「妨害」の場合、選択肢が残されていることが重要である。これによってミラーは政治的権利の付与が要請される干渉と、そうではない干渉=妨害を分けようとしている。確かに妨害の場合も正当化が必要だが、減少する選択肢が量・質の面で重要でない限りは容易に正当化できる。

ー移住希望者は入国を拒否されたとしても、充分な選択肢が別に用意されているため、自由の侵害とは言えず、入管実践は正統である。

 

④入管実践は正統でない:独立としての自由と法的強制(261-266)

「たとえ国境に出向いたりシティズンシップを得ようとしたことが一度もなかったとしても、境界という強制力(border coercion)に服している」(Abizadeh 2008:57)

ー移住を一度も希望したことがない人ですら、強制に服しているという理解はアビザデの「独立としての自由」構想に依拠している。アビザデはラズに依拠して、自律的であると言えるための3つの条件を提示している。1)自らの目的を実現するのに必要な手段を把握する能力や計画を立てるのに必要な精神力(mental faculties)。2)充分な幅の選択肢に開かれている。3)その人は独立=干渉によって他者の意志に服することがない状態でなければならない(独立としての自由)。

ーミラーの強制/妨害区別について:法的に許容される妨害の程度の基準については民主的な正当化が必要となる。この内容面での正当化を「選択肢の幅」が残されているということを理由に不要としてしまうと、多くの国内法についても正当化が不要ということになってしまう(Abizadeh 2010:127; Valentini 2012:128)。また実際の状況における選択肢の質のみに注目する場合、適応的選好形成の問題を避けられないから、起こりうる状況での選好にも注目する必要がある(Abizadeh 2010:126-127)。

⇒選択した場合に他者からの干渉を受けるような行為は無数に存在し、ある行為をすることで干渉を被るとしても、その行為が実際に選択される確率が非常に低い場合、その人の自由が侵害されているとは言えない(Kramer 2008:49; Goodin and Jackson 2007:252)。

ーアビザデのなしうる応答:1)確率の問題と政治的権利付与の要請は全く無関係である。行われる確率が低い行為への制約に対しては民主的正当化がなされなくてもよいということになれば、殺人罪の規定をどのようにしてもよいことになってしまうだろう。自分が犯罪をする可能性が限りなく低くても、刑法既定の正当化は必要(Abizadeh 2010:127)。2)確率の考慮だけでは不十分。適応的選好形成のせいで、ある行為をする可能性が低くなっている場合や慈悲深い奴隷主のケースを処理できない。後者について、潜在的に干渉しうる立場にある人の意向は容易に変化し、こうした以降の問題は実際の格率と無関係に考慮されるべきである(Petit 2008a:218-219; Skinner 2008: 96-99)。

ー入管実践は移住希望者に法的強制力に服することを強いているが、彼らに入管法の決定過程へ参加を認める政治的権利が保障されていないため、正統ではない。

 

結論(266-267)

ーアビザデは政治的権利を熟議民主主義の観点から理解する。熟議民主主義においては公共的討議における理由の提示が重視されるから、政治的権利も選挙権に留まらず、政治過程において広く意見公開の機会が保障されなければならない。そのため、何らかのコスモポリタン的な民主的諸制度が必要になる。これがあまりにも理想的だったとしても、実現可能な範囲で最も理想に近似する制度の設立を要請する。

ーリベラルが共有する個人の自由の観点から入管実践の非正統さが証明された以上、正統性についての挙証責任はそれを証明したい側が負わねばならない。

 

 

<コメント>

 ーまあ共和主義的な自由論を取るとそうなるよなあという感じだが、それ自体が論争的なので、結論で言っているほど「入管実践は正統っていう方が挙証責任負うんや!」というかんじにはならなそう。自由論を頑張って検討するしかない。

ー共和主義的自由⇒開放国境というのもそんな共有されないような見解な気がする。Stilzとか違うし。そもそも「自国よりも外国で自分の望む暮らしがしたい!」って望んで初めて他者の恣意的な干渉下に置かれるという構造になっている以上、①それは保護に値する欲求なのか②恣意的な干渉なのかという論点がある。

ー①については適応的選好形成による突破を試みているが、単純にMillerとかの立場で言いそうなのは「そういう選好・ニーズが権利として認められるのは充分性レベルまでで、それ以上は保護するもしないも自由でしょ」って話で、これは選好がどう形成されたかって話とは別なので、異なる応答が必要(Obermanがやってる、あとでまとめる)。

ー②については、入管実践についてグローバルレベルで「充分性レベルのニーズに基づく移動は認めよう、それ以外は各国に権限を割り振ろう」というルールが共有されている(承認されている)としたら、入管実践が必ずしも共和主義的自由論者の言う恣意的な干渉にあたらない可能性もある。とはいえ、アビザデ的には、そうしたルールも全地球市民に政治的権利を付与し彼らを包摂して承認させたルールではないので問題含みなのは確か。なのでこの手の「恣意的」な支配か否か論争にあたって、グローバル・デモクラシーの領域に足を踏み込まざるを得ないし、アビザデはその辺しっかりしてるのでえらい。

ー今この辺共和主義的自由、独立としての自由、非支配としての自由をかなり互換的にしながら書いちゃったのでもしかしたら独立としての自由の場合はあんまり当たらないのかもしれない。もっかいList & Valentini 2016あたりを確認。

ーいろいろ書いたけど限られた紙幅の中でできることではないので、とても良い論文ではあると思う。

ーAbizadeh 2010(Political Theory)、2008(同)、Valentini 2012(本)あたりは今後読まなきゃ!