明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Fine and Ypi ed. (2016) Migration in Political Theory⑥

僕が今読んでる中だと一番面白かったし強力な議論だと思いました!差別と移民規制という各論的な細かい問いに手堅く答えてるものかと思いきや、実はミクロな部分からスタートしてマクロなレベルで強力な移民排除権批判を展開する天才的論文です!!!(大絶賛してハードルを上げていく)

 

ch7. Immigration and Discrimination (Sarah Fine)

―移民正義論において人種や民族は後景に退いてきた。人種差別的な理由に基づく移民選別は認められないことが、コンセンサスとなってきた。本稿は移民政策の背景にあり続けてきたこの問題に取り組み、認められる移民規制と認められないものを分ける規範的な議論を提示し、かつ移住希望者への排除権を支持する議論の一貫性を問い直し、また政治哲学において制度の歴史的背景に注目することの重要性を示す。(125-7)

人種 race:生物学的、自然的な概念ではなく社会的構築物として人種を捉える。また、社会的、政治的に強い影響を持ち差別の基礎を作る。社会的、政治的関係の中で人を特定集団に帰属させて認識することで生じる。民族 ethnicity:共有された歴史や文化についての信念に基づく人々の間の差異に言及する語。人種主義 racism:階層性の認識を伴う人種的差異の認知と結びついた敵対的な処遇。人種差別・民族差別 racial and ethnic discrimination:必ずしも明確、意図的な敵意や階層性の感覚を伴わないが、人種的、民族的差異の認識を根拠とした異なる処遇(本稿では不利益を与える類の差別に注目する)。(127-8)

―移民規制の背景、動機として人種差別は存在し続けてきたし、今もリベラルデモクラシーの国家ですら、それを継続させている。(128-33)

―移民規制から人種主義をなくすには?:移民規制を全廃するのも一つだが、修正・改革によってそれを目指すこともできる。後者の戦略は3つの条件を充たす必要がある。

1)暗黙で、間接的な形で行われている、移民規制における人種差別も含めて、こうした差別を問題として認識しなければならない。2)国家の移民排除権と両立する形で、この差別の問題の何が問題であるのか(wrong-makerは何なのか)を明らかにしなければならない。3)差別の問題への解決策を提示しなければならない。差別をしないで、移民規制を行う方法を提示する必要がある。(133-5)

 

①第一、第三の条件について:背景的な文脈に言及することは規範理論においても必要

―移民規制を肯定する議論では、総じて、自己決定権を持つ共同体は移民をある程度規制する資格がある、という見解においては一致している。こうした排除権は無制限のものではなく、正統な範囲での一定の制約がかかることを認めている。ただし、いくつかの議論ではその制限は反差別を直接目的としたものではなく、ウォルツァーが白豪主義などの批判をするのも、反差別とは異なる価値に訴えているためである。(135-7)

―ウェルマンやミラーは差別が問題であること、そうした基準を移民規制において用いてはならないことは認識しており、1の条件を充たしているし、3にも形式上合致している。しかし、ただ人種的、民族的差別を禁ずるだけでは3の条件を充たすには不十分である。フェミニズムの事例にみられるように、ただ特定のカテゴリーへの差別を禁じると宣言するだけではダメで、過去の不正義の探求やそれがいかに今の制度に影響しているかを精査することで、差別を可視化しなければならない。(137-9)

⇒ペブニックの批判:規範理論で過去の不正義について触れる必要ない。正しい条件の下で、今問題にしている制度が正当化可能かどうかを規範的に判断すればよい。(139-40)

―ブレイクの議論の検討:政治哲学、政治制度、複雑な現実世界についての事実の間の関係を整理。1)非制度的理論:現在の我々の制度からは距離を置き、初めから制度を設計するとしたらどんなものを作るかを問う、2)制度的理論:現在の我々の制度が正当化されるためには何がなされなければならないのか、の二つに理論を分けている。これは理想理論・非理想理論の区分と同じではなく、両方の理論について理想的なもの、非理想的なものが存在する。例えば、制度的理想理論においては、理想的状況下の我々の制度の在り方を示すことで、もっとも現実世界における我々の行為を指導する傾向にある。(140)

―移民排除権を支持する議論は、ブレイクの制度的理論の中でも、現状の制度が正当化されるべきとする議論にあたる。しかし正当化にあたっては、何らかの形で理想的な状況下でも移民規制を正当化するような理想理論の要素を含むはず。理想的な状況下における排除権が打ち立てられ、差別禁止の要件が織り込まれたとしても、それを理想からほど遠い現実において適用できることにはならない。(140-1)

―また人種に基づく直接的な差別の禁止は人種主義や人種的不正義の背景的文脈や歴史を前提にする。人種は社会的存在であり、人種の差別禁止規定は、我々が人種というカテゴリーがある世界に住むこと、またそれがしばしば不利益処遇と結びついていることを前提にしており、こうした慣行は歴史に由来する。ブレイクの制度的理論は、現在存在する国家が自らの権力について正当化可能であるために何をせねばならないか、ということも問うため、こうした道徳的に問題含みな歴史的な移民規制から距離を置き、正当化可能な制度を示すためには、背景の文脈にも言及しなければならない。(141-2)

 

②第二の条件について:なぜ差別は問題か?(wrong-maker問題)

―ミラーの議論:差別的移民規制は非差別者を侮辱するという理由でこうした選別を否定する。排除される側はその理由の説明を要求できるが、そこで自分の人種が間違っていることなどを理由にされるのは侮辱的。私的結社ですらそうした理由に基づいて人を排除すべきではない。(143-4)

―ウェルマン:ミラーには同意しない。ミラーの言う仕方で侮辱されない権利なるものがあるとは言えないから。また「侮辱的」であることをwrong-makerとするのもおかしい。これは主観的な感情に依拠してしまうため、低技能労働者が能力を理由に入国を拒否される場合(ミラーはこの排除を正統とする)まで過剰包摂する。もし人種が受け入れ国側の重要な価値と関係していた場合、その差別的取り扱いが侮辱的だと言える批判が力を失う(人種的に同質な国を維持した、など)ため過少包摂も起きうる。また「侮辱的」という性格付けも適切ではない。例えば戦前の日本は非白人への排除的移民政策を「侮辱的」と非難したが、その理由は日本が他のアジアの国と同じくくりに入れられた事への屈辱であり、「侮辱的」という理由で差別を悪とするとこうした日本の主張にまで正統性を与えてしまうことになる。(144-5)

―ウェルマンの立場(旧):ブレイクと同様、差別が移住希望者にとって悪いというよりも、すでに国境の内部にいる市民にとって悪いという議論をする。国境内部で排除されるカテゴリーの人間と同じ属性を持つ人に対して不敬(disrespect)で、対等者として処遇する義務に反する。

⇒これもウォルツァーと同様、特定のケースでしか差別的移民規制を否定できない。既にいる市民が対象の属性を有していない場合の差別を許容する。ウェルマンは、少数でもほとんどの属性の者が国境内にいる以上、差別的な規制を行える国はなくなると主張するが、そうした経験的想定は疑問符が付くし、仮に国内から少数民族を一掃できたとして、将来にこの国が差別的移民規制をやろうとしたとき、そこに何ら不正がないとみなすのは不適当。(145-6)

―ミラー:特定の民族を選別しようとする規制は平等な市民的地位を侵害する。特定の文化の優越性を称揚することですべての文化を国内で等しく扱う試みを傷つけてしまうから。

⇒しかしミラーは宗教について公共文化の本質的要素であり、関連する基準となりうる、と主張する。また実践において人種、民族、宗教、国籍の定義はかなりあいまいであるから宗教のカテゴリーを通じて間接的に差別が生じかねない以上、民族・人種の差別を他だ禁止すると宣言するだけでは無意味。そして民族は公共的文化にどれだけ影響を与えようと無関係に基準にできず、宗教は基準としてよい理由もわからない。(146-7)

―ウェルマン(新):移住希望者にとっても差別は悪で、ウェルマンの排除権の議論と整合する理由付けはまだ見つかってない。

⇒このように排除権を正当化する議論と差別的移民規制の悪質さを特定する議論が整合的な形で展開できないなら、どちらかを諦める必要がある。(147-8)

 

<コメント>

―今まで読んだ中だと一番目新しく、面白かった。まずいったん排除権を肯定する側にも道を譲ったうえで、差別禁止という彼らも譲歩しなければならない共通の出発点を設定し、その立場と排除権が整合しないことを示すという戦略で、反差別か排除権のどちらかの主張を放棄させる(実質的には排除権を放棄しろといっているようにしか見えないが)のはあっぱれ!!

―しいて言うなら、論証の仕方がちょっと対人論法的になっているというか、wrong-makerの話でなぜここまで限られた検討にしかならないのか分かりにくいと思う(要は差別のwrong-makerとして一般的なものが上がってないのが気になるが、それは排除権肯定者たちが排除権正当化と整合的に差別のwrong-makerを提示しようとするので不自然なクソたちばかり検討されているように見えてしまう現象が起きているものの、親切にそこまで併記していないので、一見よく分からない弱そうな立場が検討されているように見えちゃう)。

―僕はこの人むっちゃ賢いと思うし、今まで見た中で一番強力に移民排除権批判をできていると思う。差別論の各立場から出発して整理しても同様の結論になりそうだし、これは強い。ちょっと差別論やってる方にも話を聞いてみたい。でも唯一抜け道があるとしたら、開き直って差別って悪いんすか?差別が悪いとしても排除権が優先しちゃうね!という路線だけど、とりあえず僕には説得的に見えないし、ハードルは高そう。