明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Estlund, D. (2017) Prime Justice

学期が始まってから明らかにペースが落ちましたね。メモを取ってない範囲で読んでるものもありますが、それでもちょっと少ない…あとは単純にEstlundは時間がかかる…

 

1.導入(35-8)

俗流する誤解:一度不正をなしたとしても、次の時点において正しいことをなすのは可能である。既に起きてしまった不正を消滅させることなく、そこから正しいことをなせるというのは、常に不正があるような社会正義の文脈において重要な正義の性質である。

⇒本稿では、道徳的欠陥のない人にとっての正義という考えを展開する。不正に左右されることない非妥協的な基準の重要さを説く。そうした第一正義の問いが社会正義において持つ意味を問い直す。道徳的欠陥がなくとも正義の問題は生じうる。例えば同一のものを所有したいという別の個人同士の利害が衝突したとき、そこには何ら悪があるわけではない。正義の情況と呼ばれるものも、道徳的欠陥が何らない状態で再構成できる。

 

定義:第一正義(prime justice)とは、各行為者に道徳的な欠陥がないとき、基本的な社会構造があるべき姿。またそれが満たすべき基準や原理。グローバルな第一要請(global prime requirement)の重要な一部分である。グローバルな第一要請とは、全ての行為者が、他のすべての行為者も同様に道徳的になすべきことをしているとき、自らも道徳的になすべきことをしているという要請。また基本的社会構造という語はロールズの用法には限定されない。

⇒第一要請がユートピア的であったとしても、第一正義までもがユートピア的であるわけではないことを示す。第一正義は何なのかという問いへの答えではなく、第一正義は何かという問いの地位を再考しよう(つまり、そうした問いは重要であることを示す)というのが本稿の狙い。

 

スペンサーvsシジウィック:スペンサーは科学とのアナロジーに依拠しつつ、現実的な状況下で実践的には何がなされるべきかという問いに答えるうえで、まずは理想的な状況下でのケースに答えを出す必要があると考えた。一方、シジウィックは理想的な状況での答えを得たとしても実践的には何ら価値がないと考えた。

⇒この論争においては実践的な有用性のみが問いの対象となっており、シジウィックのような方法が真理を理解する上で適切かどうかは問われていない。またスペンサーのような方法では正義の内容が不明瞭でシジウィックのような方法ではわかりやすいとしても、その追求のしやすさが道徳的な真理を明らかにするうえで適切である理由にはならない(むしろ、全く的外れな答えを出してしまうかもしれない)。少なくとも真理の探究において、実践的な重要性の如何に関わらず、第一正義に関する問いは存在する。

 

2.妥協と第一であること(38-43)

二つの異なる問い

1)妥協的:正義の原理には完全に遵守をするが、その他多くの道徳的な基準に関しては重大な非遵守があるという条件の下で、どのような社会の基本構造の原理が導出されるか。

2)非妥協的:正義の原理への完全遵守に加え、全ての道徳的基準への完全遵守も条件としたうえで、どのような社会の基本構造の原理が導出されるか。

―これらは正義の構成主義に訴えるような定式化がされている。構成主義によれば、正義は適切な状況下で仮想的な選択者が自身の(理想的に特定化された)利益を促進するという観点から選んだ原理によって決定される。

 

定義

正義の遵守:妥協的説明においても認められる正義原理自体への遵守。

道徳的遵守:非妥協的説明に固有の広い意味であり、全ての道徳的基準への遵守。

部分的構成主義:社会正義のみについての構成主義。(①)

完全な構成主義:道徳的な正しさ一般についての構成主義。(②)

⇒社会正義を考えるうえであっても、①と②のどちらかを選択しなければならない。ここで、「非現実的だから」という理由で完全な構成主義を棄却することはできない。どちらも実際には起きないような、正義原理への完全遵守を前提にしている点では変わりがないから。

 

非妥協的な正義の第一性(優越性、primacy)

事例:書評を書く仕事をやるべきであるが、仕事を引き受けたとしてもそれをやらないであろう教授の事例。彼を何を為すべきかという非妥協的な問いと、「引き受けたら仕事をやらないだろうとして」彼は何を為すべきかという非妥協的な問いがある。

⇒非妥協的な当為がなされれば、妥協的な要請は消滅する一方で、妥協的な当為がなされたとしても非妥協的な要請は消滅しないという非対称性がある。この点で非妥協的な問いの第一性(優越性、primacy)が認められる(Jackson and Pargetter 1986 :233-55)。

―ある要請を充たすことで、別の要請が消滅することを「覆すoverride」と呼ぶ。最初の不正をなしていなければ、その不正ゆえに生じる要請はそもそも生じなかったことになる。行為者はそもそも最初から一切不正をしない要請に服している=行為者の第一要請(agent’s prime requirement)。

―将来不正が起きたときも、それによって妥協的要請(concessive requirement)は生じうるが、それも常に第一要請が満たされることで覆される。そうである以上、妥協的な問いは常に非妥協的な問いに従属している。完全な道徳的遵守の下では妥協的な問いが消える一方、妥協的な基準が満たされても非妥協的な要請は消えない。

⇒基本的な社会制度についての問いは道徳的な誤りや不正義を常に前提にする=妥協的な問いであるからこそ、第一要請に従属するような原理にならざるを得ない。

グローバルな第一要請:条件に適った社会制度の構築と遵守を含む、全ての行為者が道徳的に善くあるための要請。非妥協的な要請に対して優越する、最も基礎的な要請。こうした要請を支持する二つの考慮がある。

1)先の思考実験(書評を書かないだろう教授の事例)からこうした第一要請の存在はもっともらしいと言える。2)第一性は、非妥協的な要請>妥協的な要請という非対称的な仕方で支えられる。

 

留保

―複数の第一要請の組み合わせがありうるし、そのいずれもが正しいということがある。第一要請の内容に不確定性があったとしても、抽象的な形では真理が分かるし、そうした曖昧さは避けられない。

 

批判:道徳的、政治的な完全遵守という仮想的な想定に対する批判

1)過度に非現実的な前提の下で制度を考えてよいことになってしまう。

⇒第一要請を充たしても警察、契約、法といった制度が消えてしまうわけではない(そのありようは、非理想的な状況で我々が持っている制度とはかけ離れたようなものになるとしても)。※注Kavka 1995 :1-18

⇒本稿ではこの第一の批判への応答を中心として扱う。

2)多元的責務の困難⇒この論点は終盤に触れて、応答は別稿に譲る。

―Estlundの言う完全な道徳的遵守は余務supererogationを伴うような道徳的完全性までも要求しているわけではない。要請についての問いである以上、天使のごとき道徳的完全性までも想定する必要はない(この部分はRawlsのTJと同様)。※注Conee 1994 :815-25

 

3.第一正義は実際のところ正義か?(43-6)

―第一正義の有用性について本稿は触れない。真理の探究の上で第一正義は必要。妥協的要請について知ることが、第一要請を知ることに依存するわけでもない。第一要請を知らずとも妥協的要請を知りうるので有用性の点で第一要請に価値があるわけではない。有用性と真理の問いは別。

―正義は我々のためのものであるから、正義の内容も道徳的な欠陥を想定した妥協の下で決めなければならない、という第一正義への批判がある。

※正義は「我々のため」のものだという見解については別稿(Estlund 2011)で応答。

⇒問題点:社会正義の、現実のreal問いが属するレベルを設定する道徳的欠陥の単一のシナリオを選ぶことができない。どの妥協が正義決定的なものであると特定し、どの妥協がそうでないと特定するのか。また、なぜそう言えるのか。

―考えられる応答:起こるだろうと知っている道徳的な欠陥を所与のものとするという策。

⇒何を所与としてよいのか基準がないため、すべり坂のようにばかげた結論まで至る。人々がどう動くかという予測に合わせて正義の内容を妥協させていくと、どんどん完全な正義の内容から離れていく。妥協的な正義では、社会正義の際立ったsalient基準が分からず、ただ妥協的な要請を可能にするだけ。

⇒また正義の情況は道徳的な欠陥を考慮に入れずとも生じる。ヒュームやロールズの説明を念頭に置くと、衝突する目的を持った複数の主体が存在するという条件だけで正義の情況は生じる。

※比較主義のような立場をはじめとした、妥協的な正義が存在することや第一正義が「正義」を超えるようなものかもしれないということは、ひとまず留保しておく。

―ひとまず本稿では、第一正義が存在すること、それが正義の情況を想定するような、正義のようなものであることを確認しておく。

 

4.第一正義は政治を超えているか(46-7)

ありうる批判:政治の領域を超えるような過度に道徳的に理想的な行動を前提にしている。強制や刑罰といった政治の特徴をなくしてしまうのではないか。

⇒それは欠点ではなく、正義は政治を超えるものとして考えられる。遵法責務や分配的な義務などは存在するし、たとえ道徳的な欠陥がなくとも強制なくしては解決しえないような対立がある。第一正義において、たとえ不正や道徳的欠陥はなくとも、道徳的見解についての多元性や適理的な不同意は生じうる。

―正義の情況:正義の基準の適用可能性の条件である。これに対して、正義は実際に適用可能であるだけでなく、「実際に満たされるだろうもの」であるべきだという主張は擁護できない(詳しくはUtopophobiaを参照)。

 

5.第一正義はユートピア的か?(47-50)

倫理の多くは他人の不正を考慮した妥協的なものであり、第一要請などというものは無意味ではないか。こうした考慮から二つの問いが投げかけられる。

1)第一正義の基準は我々が達成を望めるようなレベルからは遠くかけ離れていないか?

⇒第一要請の中のユートピアニズム=道徳的欠陥がない人々の想定は、第一正義「が」ユートピア的であることを意味しない。道徳的に欠陥がないという前提のもと考えられた正義が、その定義上絶対に達成困難だとはならない。我々が達成できると思えるような正義が第一正義を満たしていることもありうる。

2)実際に第一正義が、理想的ではない状況下における基準として適切だと言えるのか?

⇒少なくとも抽象的な思考のレベルでは、達成の望みがない(hopeless)と演繹的に決まるわけではないし、たとえ望みがないとしてもそれは妥協的に(concessively)正当化されるに過ぎない。

―これを示す道筋:道徳的欠陥がない人にも、現実の我々にとっても適切で、達成の望みがある正義の基準があり、それが道徳的不完全性への妥協に依存していないなら頑健な第一正義(robust prime justice)となる。また依存しているならば、それは本質的に妥協的(essentially concessive)である。

ロールズの正議論も頑健な第一正義として捉えることができるかも。道徳的に不完全な行為をある程度想定して導かれた正義原理が、何ら道徳的欠陥を想定しないで導かれるような第一要請をも満たすことはありうる。

…こうした頑健な第一正義の議論を踏まえ、現実的な状況下での適切な道徳の基準について考え方の違いが生まれるのか?(ひとまず内容の違いはないものとする)

⇒頑健な第一正義はその正当化において、「我々に道徳的欠陥がある」という理由のみにおいて基準が選択されるわけではない。たとえ道徳的欠陥がない人としても適用されるような基準を満たしているのであり、妥協的な正当化とは違って、消失しない。

―しかし、妥協的な基準が、何か非妥協的な基準よりも劣っているというわけではない。妥協的な基準を満たすような基本構造は、同時に第一正義を満たしていたところで、それによって「よりよく」なるわけではない。ある所与の条件の下においては妥協的な基準を満たすことも完全に正しいことである。

…妥協的な基準も満たす第一正義はどういった点で望ましいのか?

⇒アナロジー:数学の証明において小学生に適用されるものと大学生に適用されるものは異なる。どちらの証明も完全に正しいのだが、小学生の方は、彼らが知識や技能を欠くがゆえに適切な基準となるのであって、より低次の基準ではある。妥協的な状況下で、同時に第一正義をも満たすというのは、より高次の基準をも満たすということである。

 

6.第一正義の内容について何を知りうるか(50-1)

―第一要請(正義)の内容については、妥協的な状況を通じてでも部分的に知ることはできる。認知の限界から第一要請は知らなくてもよいとするのは、わかりやすいからと言ってπを有理数だとみなしたり、明るくて探しやすいからと言って別の場所で失くした鍵を探し回るのと似たようなもの。個人間道徳の多くは実際、道徳的欠陥がないような状況下でも適用されるものである。

 

7.多元的責務、敬譲された(51-4)

※先に触れたこの第二の問いは、問いの所在を明らかにするだけで、応答は別稿に譲る。

※規範的(normative):実践的理由を与えること、行為指導的であること。

規範性のギャップ問題:第一要請はあまりにも理想的で行為指導性がないという批判。どんな主体が第一要請に服するのかに関わる問題。

―「AかつBせよ」という要請は、Bが満たされない時に、Aをするかしないかについて何ら行為指導的ではないとしても、「AかつBせよ」は行為指導的な要請である。第一要請は、全てについて行為指導的でないとしても、確かに行為指導的な時がある。この点では規範性のギャップ問題はない。

―問題点:社会societyを行為者agentとみなしてよいか。もし社会が行為者でないなら、規範性のギャップ問題が生じる。(個人は単体で制度を作れないため、「制度を作り、そして遵守せよ」という要請が不可能なものになってしまうから。この時遵守complyは個人に対する要請で、制度を作ることbuildは社会に対する要請になっている。)

…グローバルな第一要請の定式:社会は正義に適った制度を「作りかつ遵守せよ」。そして各人はそれぞれ一定の仕方で振舞え。

―諸行為者の中で、一つでも義務が果たされなかった時に、この第一要請に服する行為者がいなくなってしまうのではないか?というのが規範性のギャップ問題。要請が諸行為者の集合には適用されても、単一の行為者や集団的行為者a group agentには適用されない。これを多元的責務の困難と呼ぶ。

<例>二人の手術者がゴルフに行く。個別の手術作業を二人で分担しており、一方がある作業をする要請はもう一方が作業をするという要請が充足されていることに依存する(例えば縫合がされないのに裁断だけをしても苦痛が増えるだけ)。この時、双方が手術を無視してゴルフに行くとき、何らかの道徳的不正を見出せるのか?

a)患者の死という道徳的な誤りが存在している。b)道徳的不正が存在しているとき、いずれかの行為者に責務がある。c)しかしどの行為者もその責務を果たす要請を負っていなかった。

―二人の行為者がいて、一方に対する道徳的要請がもう一方の「Aすること」に依存しているとき、「Aしなかった」場合、彼が何をしても不正をなしたことにならないのか。条件的な責務の条件節が充足されず、かつその条件節の充足は自らの当該条件的責務の充足を条件節とした他者の行為である。直観的には双方に道徳的違反があるが、どちらが不正をなしたのか特定できないという困難がある。

―規範的ギャップ問題は、①道徳的不正がある、かつ②関連する責務をどの行為者も負っていない、という①②の両方がいかにしたら両方正しいのか?という問題。

⇒これを解決するには責務が常に規範的なものとは限らないと認めるか、実はいずれかの行為者が責務を負っていたとみなすかどちらかしかない。しかしこの問題は第一正義に固有の問題ではない哲学一般の問題だから、第一正義を低く評価する理由にはならない。

 

8.和解の問い(54-5)

―たとえ第一正義が頑健なものでなかったとしても、人間の道徳的なあやまりが直ちに、完全で欠陥のない成功(第一正義の達成)の可能性を排除するわけではない。第一正義はあくまで気質proclivityの範囲内にないだけで、能力abilityの範囲内にはある。

 

<コメント>

なんとなく後期ロールズ的な想定を第一正義と彼が呼ぶような理想理論の枠組みの中でも維持したい、という意志をひしひしと感じますね。ただここ最近読んだエストランドの論考は両方とも「真理」の追求としてはひとまずこれが必要でしょ、みたいな感じで後退戦線を張りまくってて、結局論証の結果何が残ってるのかわかりにくすぎるのでまだ何も言えない感があります。ひとまず彼の方法論をGW中には全部さらいたいな~