明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Estlund, D. (2014) Utopophobia

今更ですがエストランドは訳語が難しいんで、今後直した方が良いものはけっこうあると思います。aspirationalはもうちょっと意欲的とかより、野心的とかそういう感じで訳したほうが良かったかも?とりあえずいつも通りの要約です。

 

1.導入(113-115)

Estlundの主張:政治哲学に関わる道徳理論の要請や要件が達成されそうにないという事実によっては、その理論に欠陥があるということにはならない。

―正義は実践的な社会の目標を設定せねばならないとの考えから、正義の内容について考える際に可能性による制約をかけようとする向きがあるが、これは全く適切ではない。それが実現される「可能性likelihood」なるものは正義についての制約にならないというEstlundの考えが正しいなら、正義の基準は社会の実践的な目標にならねばならない、という考えも棄却できる。正義についての真理はその実現に成功する可能性によって制約を受けない。

※ただし本稿では、そうした正義についての真理を知る価値があるか、それが重要かについては中心的には扱わない。終盤で軽く触れるにとどめる。

 

2.現実的であること、そしてその代替案(115-8)

―最も現実的な政治理論は、今人々が実際にやっているそのままのことを人々に要請するようなものだが(これを「独りよがりの現実主義complacent realism」と呼ぶ)、およそすべての政治理論は何らか現実への批判を含み、そうした厳格な意味での現実主義ではない。

―ほとんどの理論家がなすべきだと同意できるような、独りよがりでもなく、ユートピア的でもない範囲の規範的政治理論を「意欲的理論aspirational theory」と呼ぶ。Estlundはこれをも超えた、ユートピア的理論がそれだけで欠陥のあることにはならないという主張を展開する。ユートピア恐怖症Utopophobiaはそうしたユートピアニズムを非合理的unreasonableにも恐れることであり、ユートピア的な理論の周縁化を招く。

留保:「当為は可能を含意するought implies can(以下OIC)」と「当為は合理的に起きそうであることを含意するought implies reasonably likely」は区別される。個人や制度に課される道徳的基準が、課されるものの「能力abilities」を超える場合にまでその基準が要請されるわけではなく、狭義のOICは認める。しかし、その基準が達成されないだろうunlikelyからと言って、それが要請されなくなるわけではない。

※前者についても本稿での議論のためにいったん譲歩するだけである。例えば運平等主義の理想のように完全な達成が人間の能力を超えていても、正義の内容としては正しいことがある。コーエンが定式化するように、正義というのは規範的に根本的なnormatively fundamentalもので、「もし可能であるならばなすべきought if we can」ものであり、全く能力とは関係ないと考えることもできる。ただし本稿ではそれを譲歩しても、達成される可能性が著しく低いだけでは、基準が能力を超えていることを意味しないという点を強調する。

ユートピア的な理論として想定されるのは、人々の能力の範囲を超えてはいないが、決して達成されることがないだろうというような基準。そしてそうした理論に、実現されないだろうという理由で欠陥があることにはならないと主張する。「できるcould」ことにもかかわらず、それが実現されないのは人々が「やらないdo not」からであり、これは理論ではなく人々の欠陥。こうしたユートピア的な理論を「望みのない意欲的理論hopeless aspirational theory」と呼ぶ。

 

3.能力ability/確率probabilityの区別(118-20)

―不可能であるimpossibleことと、起こる可能性がゼロであることは同じではない。不可能である、には二つの用法がある。

1)impossible for her to do:行為者が(能力的に)できないことを指す。unable to do

2)impossible that she will do it:行為者がそれをする(客観的な)確率がないことを指す。

⇒決して後者の確率が低いことは、能力的にできないということを含意しない。zero probabilityはinabilityではない。ゼロ確率は、その行為の難しさを含意しないから(例:急に講義中にエストランドが躍り始める確率はゼロに近いが、能力的に不可能ではない)。

―そして確率の意味で用いる不可能性impossibilityの主張は、OICの想定が考慮するものではない。OICはあくまで能力に関わるから、実際に達成される確率の低さそれ自体はユートピア的理論の欠陥にはならない。特に確率の低さの理由は能力ではなく、行為者の動機や選択のせいであることがよくある。

―能力的な意味で不可能であることを超えて、達成される確率が低いだろうことを理由にして政治理論の限界を定めるにはOICではない、別の正当化が必要だが、以下ではEstlundは、そのような制限はないことを主張する。

 

4.望みのない意欲的理論(擁護)(120-3)

―達成される望みがないような高い基準は行為を悪い方向に導くかもしれない。例えば、全ての人が不偏的な思考をすることを想定したとき、何らかの被害者を補償する制度は、そうした被害者としての受益を狙った利己的な考え方を促しかねないからという理由で棄却されるかもしれないが、それを不偏的な理想から離れた現実で適用すると破滅的な帰結を生むかもしれない。

⇒何を為すべきか、というのは重要な問いではあるが、正義、権威、正統性についての真理は何かという問いは全く別なので、適用における問題はこの理論の欠点を示すことにはならない。

―そうした理論は道徳的でも規範的でもないという批判については、1)評価的な理論であるという点で、間接的な仕方で行為を指導しているし、2)またユートピア的な理論の要請の実践性は、それが達成されないだろうという理由では消えず、そうした要請に適うよう行為するよう直接的にも指導を続ける。

―それでも望みがある意欲的理論(可能であるだけでなく、実際に達成されるだろう基準)の方が優れている、と批判されかねない。⇒しかし、道徳的に何を為すべきかの推論において、それが実際に達成されるだろう可能性を考慮する意味はない。

―望みのないhopelessことと過酷であるharshことの区別:能力内にあっても、基準を満たすためには自縛や自己犠牲を要求するような 、功利主義のような理論は「過酷なharsh」理論と呼べるが、もしこうした過酷さを備えるならば理論には欠陥があることを仮定する。達成の望みがない基準は、それが自己犠牲を要求するような過酷なものであることを意味しない。

???なんやこの恣意的な区別…

―ひとまず実践における有用性について譲歩しても、道徳的な真理の探究として望みのない意欲的理論に欠陥があるわけではない。また真理の探究においては、意欲的な理論だけでなく、妥協的規範理論concessive normative theoryも必要である。

 

5.倫理における意欲aspirationと妥協concession(123-5)

―道徳哲学では、確率の低さimprobabilityを理由にして要請を取り下げることはないのに、政治哲学ではなぜかそう主張されることがある。政治に関わる道徳的な原理が満たされなかったとしたら、そこでまた何を為すべきか新たな道徳的な問いが立てられるし、そこで建てられる妥協的な基準が意欲的な基準よりも高い確率で充たされるという保証はない。

(例)Jackson and Pargetter (1986) Ought, Options, and Actualismをここでも参照(Prime Justiceでも全面的に依拠)。内容についてはPJのやつと同じ、引き受けても書評を書かないだろう教授の事例(省略)。また切断と縫合の両方を為すべき医者の事例をあげる。医者は患者の救命のため、「切断し、縫合すべき」であるが、仮に彼が縫合をしないだろうと仮定したとき、ただ切断だけをすべき要請が残ることにはならない。

―ある要請をしないだろうということを所与としたときに彼が何を為すべきかと言う問いと、そもそも非妥協的な次元で彼が何を為すべきかという問いは共に成立しうるし、前者の問いがあるからといって後者の非妥協的な基準が消えてしまうわけではない。

―「SはxとyをすべきであるS ought to do x and y」と「Sはxをすべきであり、SはyをすべきであるS ought to do x and S ought to do y」は異なる。後者は仮にyがなされることがないだろうと仮定してもxをなす要請に服したままだが、前者はyがなされないだろうと仮定したときにxを為すべきとはならない。社会制度についても「作り、遵守すべき」要請が存在していたとしても(非妥協的)、遵守しないだろうことを所与としたときに制度を作る要請が残ることにはならない。しかしこのことは「作り、遵守せよ」という要請自体を消してしまうわけではない。

 

6.当為、可能、集団(125-7)

―能力的な不可能性を導くかもしれない重要な批判:各人にとって要請を果たすことが可能だったとしても、それはある人が、他の人たちに要請を果たさせることが可能である、ということを含意しない(例えば、各人それぞれにとっては、要請されている一定程度の政治参加が能力の範囲を超えない可能なものだったとしても、その参加の確率が低いと見込まれるとき、ある人が他の人をも参加させて、全体で要請されている程度の参加を達成させることが能力を超えていることがありうる。エストランド自信が講義中に踊り出すのはエストランドの能力の範囲内かもしれないが、あなたがエストランドを躍らせることは不可能という非対称性がある)。

⇒それぞれの人々に直接参加を要請しているのであって、他者を参加させるような要請は含まれていないから、ここにはやはり不可能な要請は含まれない。

(例)親として、決して時間通りに行かないだろうことが分かっている子供を時間通り学校に着かせしめることが不可能だとしても、その子供が時間通り学校に着くことは能力的に可能である。全員に縁故採用をやめさせることが不可能だとしても、各人にとって縁故採用しないことは可能な要請である。

―ほかの問題:行為が本質的に集合的であるとき。集団に課される要請が、直接構成員である個人に分配され、個人も同じ要請を負うとは限らない。

⇒それでも自分の役割を果たす要請を個人が負うし、他の個人の非遵守を理由に自分に要請が課されなくなる場合があるとしても、それは不可能性を理由にしているのではない。

 

7.理想理論(127-9)

―理想理論の二つの要素:1)完全遵守…正義原理が完全に遵守されるという想定で諸原理の中から選択をする。2)完全で普遍的な道徳的徳…人々が実際にあるような姿ではなく、道徳的にあるべき姿だという想定を置く。愛する人への義務など、道徳的な善は時に正義への完全遵守と衝突しうる。どちらの場合も、この種の理想理論は規範的結論を反事実的な仮定に依存させてしまっている。

―理想理論に対しては、事実とは異なる反事実的な仮定を置いたうえで為すべきことを導出したとしても、その結論は誤った事実的仮定に依存する条件付きのものだから、現実の状況に全く適用できないものだという批判がある。

⇒ひとまずこの種の理想理論とEstlundの意欲的理論を区別する。意欲的理論がやろうとしていることは、反事実的仮定に対して条件的な当為を導くことではない。むしろ、単に人々が要請されていることを明らかにしようとしているだけである。「もし人々が善いならば、ある制度を持つべきだ」と言っているのではなく、「人々は善くあり、かつある制度を持つよう要請されている」と主張しているのが意欲的理論。真理は全く反事実的な仮定に依存していないし、そもそも反事実的な仮定を置いているわけでもない。そしてあるがままの現実に対して、意欲的な理論は規範的な結論を適用してやることができる(例えば、この社会は不正である、~が満たされない限りこの社会は正義に適っていない、などといった評価を下せる⇔妥協的な理論は、~が満たされていないとして、我々は何を為すべきかを指導する、という形で仕事分けがなされる)。

※Estlundは理想理論と意欲的理論を分けているが、良く定義された理想理論がEstlundのいう意欲的理論と重なるような形になることはありうると思う。普通は、理想理論のいう真理が反事実的条件に依存的だとは認めないだろうから。

 

8.コーエンの見解との区別(129-30)

コーエン:事実に依存しない正義原理と事実依存的な統制ルールの問いを区別。正義は、統制ルールについての問いを考える際には、安定性や効率性などと同様に重みづけられるべき価値の一つに過ぎない。

⇒コーエンとの相違点:社会統制の原理として正義原理が適していなければならないか否かについて本稿は問わない(オープンにしておく)。本稿は正義原理が満たされる可能性が(高く)なければならないのか否かを問う。

⇒コーエンとの共通点:正義理論の真理については、その実践的使用が可能かどうかで評価すべきではない。実践的使用に適しているかは別の問いである。充たされる可能性が低いだろう原理でも誤っていることにはならない。

 

9.完璧な人々は政治を必要とするか(130-1)

―一切の妥協を拒めば、政治など不要になってしまうのではないか?法や警察、裁判などに位置を与えない政治哲学の理論など致命的に欠陥があるのではないか?

⇒仮に政治哲学をそのように定義しても、ユートピア的な理論が正義や権威、正統性についての正しい理論であることを何も否定しない。正義や権威、正統性の内容が人々の行為に関する非現実的な想定(例えば道徳的に完全な行動)に依存しているわけではない。単にその基準に達しない場合に正義や権威、正統性がないだろうと主張しているだけ。

※また追加的な応答としてKavka 1995

 

10.「理想理論」は妥協的な構成要素を有するか?(131-2)

―我々がみな為すべきことをすべてしていたら、刑罰制度は不要だと仮定する。しかしなすべきこと全てをやっているわけではないため、刑罰制度が必要である。この時その制度はどんなものになるか問わねばならない。

⇒第一段階では、例外的に妥協した事実的想定以外については意欲的に考え、他のなすべきことをすべてするような想定を置く。しかしまたその基準が満たされないとなると、第二段階ではさらに妥協をし、その妥協を除いて意欲的な理論を立てる。こうしてこれを繰り返すと、最終的には独りよがりの現実主義のようなばかげた結論まで至るから、どこかで限界が必要。どの政治理論も何かしら意欲的な要素を持っているのだから、現実との乖離を理由に意欲的理論を批判できない。

 

11.ユートピア的理論の何がよいのか?(132-4)

―ここまででは、ユートピア的な理論が非現実的だとしても真理を捉えている可能性を擁護してきたが、そうした種の正義の理論の実践的な価値については答えてこなかった。

⇒簡単な答え:理論的な探求を実際に達成できそうなものに限定していては、人類はこれまで大きな進歩を遂げてこなかっただろうし、少なくとも理論的な探求において現実的、実践的なマインドにすべてを支配される必要はない。また本稿は真理を中心的な問いとしていて、その価値の有無は問うていない。また数学的な真理と同様、実践的価値がなくとも知的に重要であることもある。

⇒正義についての真理が実践的価値を持たねばならないわけではない。現実的な状況を想定して行為を指令するようなものではないからといって、それが真正な社会正義の基準ではないことにもならない。

※さすがに意味不明すぎる。何が言いたいんやこいつは…???とりあえず11節は無視。

 

<コメント>

まあこいつはとにかくJackson & Pargetter (1986)の遅延教授が好きですね。今読んでるHuman Natureの方にも出てきてますし。どうしても過度に抽象化と後退戦線を張っている影響で、実際の正義の理論を展開する時に彼の理論に何の価値があるのか本当に分かりにくくなっているので、すべて読んでからゆっくり考えたいですね。