明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Estlund, D. (2011) Human Nature and the Limits (If Any) of Political Philosophy

タイトルの(if any)がおしゃれですね。じゃくそんあんどぱーぐれったー(?)1986年の論文はエストランド読むうえで必読っぽいです。

 

導入(207-8)

―OICが正しいとしても、~をするように意志を奮い立たせることができないことと、~をすることができないこととは違う。前者についても規範的要請の制約として認め、当為は「意志できること」を含意すると考えることも可能であり、その場合は人間本性(人間の動機付け能力の限界)が、政治哲学が道徳的に要請できることを制約する先行的な事実となる。

⇒Estlundの立場:こうした人間本性の事実は道徳的要請を制約するものとはならず、意志を奮い立たせる能力の欠如は道徳的評価に服する。確かに制約に関係するような人間本性もあることは否定しないが、人間本性は政治哲学に対する一般的な制約とはならない。

 

1.人間本性による制約(208-11)

人間本性による制約:人間本性を無視した、つまり人間本性や人間の動機付け能力に照らすと充たされることがないだろう要請や基準を課す政治理論は欠陥があり、誤っている。

―これに対する応答としてマルクス主義や平等主義のように、そうした人間本性を否定することもあるが、本稿ではしない。本稿では人間本性や制約になるということ自体に批判を加える。またここでいう人間本性は、人間の利己性や偏性partialityなど動機構造に関する狭い意味で用い、生物学的な制約などの広義のものは含まない。議論を単純にするため、こうした利己性や偏性に強い仮定を置き、それでも人間本性が政治哲学への一般的制約とならないことを論じる。

―弱いバージョンの検討:人々が政治理論の要請する基準通りに行動しないだろうwon’t actということだけで、基準が誤っていることにはならない。それはただ基準が満たされないことに言及しているだけであって基準への批判とはなっていない。何か補足する追加的な議論を要する。

―ありうる修正1:事前に人々がやらないだろうと分かっていることを要請するのはOICに反している。

⇒~をする能力を欠いていることと、~をしないだろうということは異なり、後者を論証したからといって前者が含意されるわけではない。OICのいう可能というのは、能力の意味で解すべき。

※人が~をできるかどうか問うときに、因果的決定論により人々が~できないことを前提にすべきではない。それを前提にすると正義や道徳の要請を問う意味がなくなってしまう。ひとまず本稿では決定論が誤っている、ないしある種の両立論の立場を前提にする。両立論においては因果的決定論が正しくても、反実仮想的に~することも可能であったはずだと考えることができる(性格上、因果的に言えば近隣の人を助けないだろう人がいても、彼が助けることは可能だったと言える)。そうした意味で可能であるならば、OICを充たし、ある行為を要請されているとみなせる。

※抑圧的な脅威と誘因incentives(強制ではない)に関わる問題。人々の元々の動機づけが正義の要求を行わせるには不十分で、その達成には正義に反するような抑圧的な脅威であったり誘因といった形で動機づけする必要があるとしても、そうした誘因付与が道徳的に認められるわけではない。元々の要請が正しいことと、その要請を達成させるための動機づけの方法が不正であることは両立する。

⇒できないことcan’t do、は要請を阻害するrequirement-blockingが、しないだろうことwon’t do、はそうではない。

 

2.人間が意志できないこと(211-4)

ありうる修正2:人間がある行為をしないだろうというのは、彼らが動機的にそう作られていないからであり、それは動機的な本性ゆえにある行為をできなくさせているからである。例えば親が子供を共同体に預けたり、自分の時間や技能を不偏的に共同体の善のために使ったりすることは、それが正義に適うと知っていたとしてもできない(こうした事例を、行為を意志する能力がないことの事例cases of an iability to will the actionとする)。動機的な不能性incapacityが人間本性としてある。

―won’t doケースは要請阻害的ではなく、can’t doケースは要請阻害的だが、can’t willケースはどうか?このケースにおいては行為者の動機構造を除いては何の障害もない。一方には意志できないことも立派にできないことに含まれるという解釈があり、もう一方には意志できないこともできるに含まれるという解釈がある。

定義:行為者がある行為をしようと試みtry、諦めなければnot give up、その行為をすることに成功する傾向にあるtend to succeedとき、そしてその時のみ、行為者はその行為をすることができるbe able to/can。

※~する可能性があるpossibleことはできるableことを含意しない(山札からハートのJを引く可能性はあるが、それをできるとは言わない)。実際性は可能性を証明するが、能力までは証明しない(Actuality proves possibility, but not ability)。

―OICを前提として出発する以上、意志できないことが要請阻害的ではないというためには、当為は意志できることを含意するというテーゼを否定しなければならない。つまり~を意志できないことと、~をすることができることが同時に成立する必要がある。

※この段階では意志できないことはできないことを含意するか否かの問いをオープンにしておく必要がある。日常言語において、動機構造の在り方から遠くかけ離れた行為をすることに対して「できない」という語を使うことはあるが、それはOICに関連するような道徳的問いとは別である。ひとまず意志できないとしても、することはできる、という状況があるかどうかについてオープンにしておいてよい。

⇒本稿の問い:行為者にとって、~することはできるが、意志できないことが示されたとき、それは要請を斥けることになるのか。

 

3.人間本性vs正義の社会主義的理論(214-5)

カレンズの社会主義的な(正義の)評価基準:1)個人の自由の原理と両立する収入の平等を分配的な原理とする。2)制度的には、市場原理にしたがって生産されたものを徴税などによって平等に分配することになる。3)市民はそれが平等に再分配されることを知りながらも、自分の課税前の所得を最大化するよう最大限の努力をするような行動的な要請behavioral requirementに服する。(これをEstlundは正義の課税前最大化Pretax Max理論と呼んでおく。)

―カレンズ自身はこの理論をユートピア的であると性格づけるが、同時に適切な社会化があれば人々はこうした理論に従うような動機的、行動的な性格を身に着けることができるかもしれないと論じる。

⇒Estlundの主張:仮にそうした動機を身に着けることが人間本性からして起こらないだろうという場合でも、正義の課税前最大化理論という要請を阻害することにはならない。

※制度的提案としてであれば、人間本性に関わる事実を無視している理論は不適切であることを認める。しかしカレンズの理論やEstlundが擁護するものは違う。一方、正義の根本原理のようなものでもない。正義の制度的なinstitutional理論であるが、提案proposalではない理論。

―次節、例のJackson & Pargetter (1986)を参照して説明。

 

4.インタールード:遅延教授(215-9)

※別稿と重複する部分は適宜省略。

―ought to A and Bからought to A and ought to Bが論理的に演繹されるわけではない。当為の分配性distributivityは認められず、遅延教授は「書評を引き受け、かつ実行すべき」であり、また「(引き受けても実行しないのであれば)引き受けるべきではない」ということが同時に成立する。「ステーキとステーキソース」を食べるのは善くても、「ステーキソース」を食べるのが善いとは限らない。

―次善問題:複数の要請が一つのパッケージになっているとき、その要請の一つが満たされない時、残りの要請の価値は再び問われ直さねばならない。価値は時に全体論的holisticであり、ある条件が満たされているかどうかに価値の成否が依存することがある。

※もとの遅延教授の事例は、当為の分配性を否定すると同時に、当為の実際主義actualismを支持するために使われていたが、それについてはオープンな問いにする。仮に遅延教授が書評を引き受けるべきではないとしても、「引き受け、かつ実行すべき」という要請にも服していることには変わりがないし、当為の分配性が否定されることにも変わりがない。

―カレンズの理論が制度的提案でないとしたら何なのか?答えるうえで、以下3つの事柄を区別。

1)根本的政治原理:制度的内容(分配パターンなど)を伴わない抽象的な原理。

2)制度的提案:具体的なルール(政治、経済、法的な手続きや制度)の導入を提案する

3)制度的原理:制度的提案ではないが、広い意味での指示や提案の一部として制度的な配置を記述する。作られ、遵守されるべきものとして制度を記述するが、人々が遵守しないだろうという場合にその制度がつくられるべきだという指示を与えるわけではない。

―カレンズの理論は第三の制度的原理にあたる。そしてこれは、人々が作らないだろうとか、遵守しないだろうとかいった事実によって否定されるものではない。

―考えうる想定敵の批判:人間本性に基づく議論では、単に人々がカレンズの要請に従わないだろうwon’tということだけでなく、人間本性ゆえに意志することが不可能であるnot able toというところまで含意されており(そのように行為することを意志することへの特徴的な動機的不能性a characteristic motivational inability to will to behave that way)、その理論が誤っていると主張できる。ここでは意志できないことが要請阻害的か否かが問われている。

 

5.利己性は要請阻害的ではなく、典型性は何も加えない(219-21)

※病的なもの(精神系の疾患など)について、それが要請阻害的かは留保する。

(例)個人のケース:精神的な疾患などはないが、とても利己的な人間が、禁じられているにもかかわらず道路脇に家庭のごみを捨てる。それを「動機づけることができないから、ごみを捨てない要請に服していない」と開き直る。

⇒少なくともこの事例で動機的な不能性が要請阻害的だとするのは馬鹿げている。

※要請があまりにも重い負担である場合にそれが拒絶されうることは認めるが、これは人間の動機的能力に妥協しているわけではない(後述)。

―カレンズの理論が人間本性と両立しないとする二つの説明。

1)利己性⇒ゴミ捨ての事例からわかるように、要請を阻害する理由にはならない。

2)典型性:Sが~を意志することができない原因である、動機的な不能性は人間にとって典型的なものである。⇒その不能性が人間に典型的であったとしても、何も変わらない。

(例)先のゴミ捨ての事例で、周囲の人間も同様に利己的で要請に従わない人々ばかりだとしても、やはりその要請にみな服していることには変わりがない。

―次なる検討:人々に、マザーテレサのように非利己的(人間としては見なされないような非利己性を持つ)にふるまうよう要請する理論は誤っているのか?

 

6.特権prerogativesは人間本性への妥協か?(221-5)

―正義の理論は子供を親から引き離して公的に教育するよう命じるかもしれないが、皆そう動機づけることができず、誰も子供をそう育てるべきだと認めない。これは人間本性への妥協ではないか?カレンズの課税前最大化の要請も、子供による本を読んであげる時間を削ったり、娯楽への消費を減らしたりして、職業的な教育に費やすなど馬鹿げた要求をしないか?

―こうした考慮から、行為者にある程度の特権prerogativesを認めるべきではないかという議論が出てくる。こうした特権の正当化は、人間本性の観察から導かれるのではなく、自身の目標追求に関連するような価値論上の考慮から出てくる。

⇒譲歩:カレンズの当初の要請が「あまりにも過度な負担を課すtoo demanding」という理由で棄却されることを認める。つまり、当為は不合理に過度な負担を課さないことを含意するought implies not unreasonably demanding。しかしこれは人間本性への譲歩ではなく、単純に、個人の目的追求の価値論上の重要性などといった複雑な考慮に基づいている。これは要請の内容についての道徳的判断である。

―もし「過度な負担を課してはいけない」という制約が人間本性への考慮に基づくなら、馬鹿げた帰結を招くことになる。(例)人は人間本性上、動機的にある程度の残酷性を持っているため、残酷じゃないようにふるまう要請は間違っている。⇒馬鹿げた議論。人間本性であることが特権を許しているのではなく、別の価値を考慮した結果に過ぎない。人間の動機に関わる特徴が正義の要請を阻害することもないし、偏性の特権を認める根拠ともならない。

※コーエンの事実不感応的な根本原理という考えについては中立的。ただコーエンが明示していないポイントとしては、Estlundのいう事実不感応的な原理の範囲は抽象的な正義の原理(根本的政治原理)に限られず制度的原理も含む。事実不感応性の適用範囲は制度的か、非制度的かの境界に引かれるのではなく、原理か提案かの境界に引かれる。

 

7.正義の情況とコミットメントの負担strains(225-9)

―正義の情況:利他心の限定性と資源の希少性(ヒュームとロールズ)。これが克服されれば、正義の問いも同様に克服されることになる。しかしある条件が永続するという事実によって、その条件が正義の情況の構想に必ず組み入れられるわけではなく、動機的な不能性を正義に反しないものとしてみなす必要性はない。本稿では正義の情況の二要素を前提とするが、正義の内容を決定する際に人間の動機構造を考慮する必要はない。

―課税前最大化の要請に従うことは利他心の限定性を完全に無視するような動機を求めているわけではない。収入最大化によって、自己利益も増えるはずだから、ただの完全な利他心によってのみ行為するような要請にはならないから、穏当な想定である。人間本性に照らし、決して起きないだろうとされる動機構造を求めてはいるが、かといって正義の情況の範囲を超えているわけではない。

ロールズ正議論:原初状態でも仮想的な選択者の動機的な不能性は考慮に入れられ、その不能性と衝突してしまうような要求は斥けられるため、カレンズの課税前最大化は正義原理として正しくない。

⇒確かに遵守されないだろう制度を導入すべきではないが、それが正義の内容として正しいかどうかは別の問いである。たとえば人々は、自分の才能がより優れているとき、そうではない人が分配の結果自分と同じくらい利益を受けていると知ったら、怒りや嫉妬を感じるとする(ロールズはそうではないと思っているが、充分ありうる想定)。人々の動機構造を組み込むロールズ正議論の方法論からすると、才能や能力に従って分配しないような制度は拒絶されなければならなくなる。そして、こうした才能に応じた傾斜的な分配が完全な正義を構成することになる。

―Estlundが重視したいのは、こうした実践的な考慮に基づき何を導入すべきかについての答えから、正義の内容について引き出すことはできないということ。社会正義の内容は動機構造に感応的ではない。

―また本稿は、正義の内容を制約する動機構造「も」あるかもしれないという弱い主張も否定する。何かの特徴が正義を制約するようなすべての事例において、その特徴の道徳的な価値や重要性が正義を制約するような重みづけを与えられるかが問われ、その特徴が人間本性であるという理由によって重みづけられることがないからである。

―利他心の限定性が正義の情況の要素として認められるのもそれが人間本性だからではなく、利他心の限定性がある状況でなければ正義を適用する場面がないから。正義の内容は動機構造に関わる事実に先行する。

 

8.人間の正義(229-30)

ありうる批判:正義は天使ではなく人間のためのものなのだから、自然本性を考慮に入れたものになるべき。そうしていないEstlundの理論は人間のための正義ではない。

⇒人間の正義は、人間がその基準を充たさないだろうものでありうる。基準を人間の正義にするものは、それが人間に適用され、彼らにとって規範的(行為を指導するものであるnormative)ということである。

―正義や道徳性の基礎として人間本性を避ける点ではカントの道徳哲学に似ている。人間は完全に理性的ではないから、道徳の原理に服しているし、人間が従うべきものであるという点で、たとえ人間本性から離れていても人間のための道徳である。

 

9.人間本性は言い訳になるか?(230-5)

―別の人間本性による正義の制約の擁護:当該動機構造が非常にもっともらしかったり合理的だったりするとき。カレンズが、社会の要求に絶対的な優先性を与える原理はあまりにも過度な負担を課すというときに念頭に置いているのは、そういった事例。

―この場合も特徴が人間に典型的であると言う理由にすると、共通して見られるような非適理的な動機までも正当化する過剰包摂が起きるから、別の考慮に基づく。

―別の擁護:グランドキャニオンのガラス底の橋を渡る勇気は動機的な不能性ゆえにないが、この不能性は要請阻害的でないのか?これが要請阻害的だとしたら、どうして正義の場合も人間本性が動機阻害的にならないのか?高所への恐怖はこの時、非難を受ける責任liability to blameを和らげているし、不正義も同様の仕方で動機的な不能性によって和らげられる可能性がある。

⇒Estlundの応答:1)和らげられる場合があっても、それはそうした人間本性が多くの人に共通しているからではない(ゴミ捨ての事例や残酷な行為の正当化の事例を参照)。2)許された行為excused actsのカテゴリーの中に、正当化されない行為も含まれている。例えば高所での救命の事例では、たとえ恐怖が言い訳excusesになるとしても、救命の要請が消えてしまうわけではなく、残り続ける。言い訳ができることと要請阻害的であることは別。

―考えうる批判:正義がそのように言い訳されうるもので非難可能性がないものならば、誰が正義など気にするのか?

⇒応答:行為者は正義を気にしなければならないmust。ある要請をしないことに言い訳ができるとしたら、それは道徳要請的な理由によらねばならない(例えば自分自身への犠牲がほとんどないなら無辜の民を救うべきという要請)。高所への恐怖が言い訳になっているのではなく、行為への道徳的な理由を動機の上で介在させている必要がある。そのため行為の際に、正義の内容を何ら考慮していないのだとしたらそれは道徳的欠陥となる。…言い訳になる動機(的不能性)は道徳的な考慮との関連性を持っていなければならないし、当初の正義の内容を無視してはいけない。道徳的理由への指向orientation to moral reasonsが必要。

(例)同じ人種の人なら助けるよう動機づけられる、猫なら動機づけられるという人が、別のそうではない事例で、高所への恐怖を救命しない言い訳にできない。道徳的欠陥を示す。

―社会正義の場合も要求を充たさないことが言い訳できる事例もあるが、その時も正義の基準が消えるわけではないし、言い訳がされるためには道徳的理由への適切な指向が必要。ここでは、言い訳excuseと正当化justifyを区別する。

―動機的な不能性はそれだけでは言い訳の力を担保しない。その不能性が正義破壊的な動機を反映していないかどうかは明らかではないから。もし動機的な不能性が直ちに正義を制約することを所与とすると、こうした問いが封じられてしまう。ある動機構造がその一般性や不偏性、自然性を理由にして、正義への非遵守を正当化したり言い訳したりすることはない。

 

10.個人と集団における能力と言い訳(235-7)

―個人のレベルに加え社会のレベルでも、言い訳と正当化の間の関係を明確にしておく必要がある。また社会が正義の基準を満たすかどうかはその構成員がどう行為するかに依存する。

・能力架橋原理the ability bridge principle:社会が基準を満たすのに必要な個人の行為が諸個人の能力の範囲内にあるとき、社会がその基準を満たすことも社会の能力の範囲内にある。

―個人が必要な仕方で行為できない時、社会正義の要請は阻害される。個人がしないだろうwon’tということによって、社会がその基準を満たすことができないcan’tということが含意されるわけではない。

・言い訳架橋原理the excuse bridge principle:社会の不正義が、個人の道徳的に防いで言い訳できない行為によって引き起こされているならば、社会的不正義もまた不正で、言い訳されない。

―個人の行為が言い訳できるときに社会不正義が言い訳できるかどうかについてはオープンにしておくが、社会正義の基準自体は消えるわけではないし、それが人間本性であることを理由に言い訳されることはないというメインの主張については否定されない。

 

11.結論(237)

(省略)

 

<コメント>

やはりこの論文でも直接の行為指導と切り離したところで、妥協的な原理や基準によって消えることのない正義の領域を残そうとしているが、こうした要請に従わないために適切な理由が必要であることを示している点ではほかの論文よりもこうした理論の価値がおぼろげに見える感じになっている。