明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Fine and Ypi ed. (2016) Migration in Political Theory①

移民正義論の重要な論文集です。結構ビッグネームがいっぱいですね。いずれ全部読むつもりではいますが、興味のあるものからバラバラにまとめのメモを書けたらなあと思います。まずは今学期ゼミで扱うこともあって、Wellmanの論文からまとめようと思います。

※a right to exitとa right to emigrateの訳語を両方出国の自由にしたり、a right to enterとa right to immigrateの訳語を両方入国の自由にしたり、しなかったりとけっこうこの辺の訳仕訳を雑にしています。あんまり翻訳を気にして他人の日本語論文を読んでないのですが、いい訳し分け方があったら教えてください。

 

Ch5. Freedom of Movement and the Rights to Enter and Exit (Christopher Wellman)

ー移動の自由という権利の射程はどこまでか?rights to immigrateとrights to emigrateの間の非対称性は、個人の自由を前提とする限り、特別な正当化を必要とする。⇒Wellmanはこのタスクを本論文で遂行する。①正統な国家の移民流入を規制する権利と個人の出国の権利(rights to emigrate)が両立することを結社の自由の議論に訴えて擁護する。②移動の自由について論じる。③出国についても同様に規制できる可能性があることを示す。(80)

①入国の自由と出国の自由の非対称性

ー移動の自由は無制限の自由でなく、例えば私有地への侵入を所有者が拒否できるように、国家が移民規制をすると考えることはできる。国家は国土について所有権を持っているわけではないが、領域に対する管轄権(a right of jurisdiction over their territory)を持っており、これは成員資格のコントロールを支える。①正統な国家は自己決定への資格がある。②結社の自由は自己決定の不可欠な構成要素である。③結社の自由は、誰と関係し、誰との関係を拒むかを決める資格を含意する。たとえばスウェーデンノルウェーと併合して単一の国家になりたいと望んでも、それをノルウェーの同意なしにする権利はないし、EUノルウェーの同意なくEUに加盟させる権利はないと考えるのが自然であり、こうした結社の自由は個人の権利と類比的に考えられる。(81-82)

ー家族関係における結社の自由の方がより重要であることは認めるが、それは政治的なレベルでの結社の自由を否定することにはならないので、議論が弱まるわけではない。ゴルフクラブのメンバーが、今後の自分の団体のメンバーとしての経験が左右されうることや団体の方向性が左右されうることを理由に、新しいメンバーシップの管理について配慮する理由を持つように政治的共同体もそうする理由を持つ。⇒これが直ちに移民排除につながるわけではなく、成員の選好に応じて方針が決まるというのが重要。ひとまず、成員を管理する推定的な(presumptive)権利が国家にある。(82-85)

ー結社の自由は二つの方向から理解される。個人を招き入れる団体の側と、招かれる個人の側。個人にも当然結社の自由があり、これが結社を拒むことは当然認められるため、これが出国の自由(a right to exit)を基礎づける。また移動の自由も同様の個人のrights to emigrateを支持できる。(85-86)

 

②入国の権利(移動の自由):対称的な(入国の自由を含意するような)移動の自由に基づく議論をColeの議論を軸に検討する。Coleの主張は、1)移動の自由に対する人権は国家の自己決定権に優先する。2)移民管理権を国家に認める場合、国内の移動の自由を認めないことへの批判をする足場まで失われる。3)a right to emigrateは必然的にa right to immigrateを含意する。(86)

1)Coleは移動の自由は人権であり、国家の自己決定権よりも重要であるし、正統性の条件として人権の保護・尊重を設定するWellmanの立場からも、移動の自由が支持されねばならないとする。

⇒Coleの人権概念は拡張的すぎる。私有地に勝手に侵入されない所有権が個人にあるように、移動の自由は絶対的で無制限のものではなく、他者の領域管轄権によって覆されうる。たしかにノージックの独立人(周りを完全に他人の私有地で囲まれて移動ができなくなった人)のような場合は確かに移動の自由が失われ、この場合はロック的但し書きを満たさないものとして移動の自由が優先されなければならない。このように人権というのは生存や、尊厳ある生に十分な利益・ニーズと結びつくのであって、「十分な」量が提供されていればよいはずである。一切の出国を妨げられるような場合は、確かに移動の自由が侵害されていると言えるが、現状はそのような事態になっていないため、これをもって人権の侵害とすることはできない。(86-88)

2)充分性と移動の自由への権利を結びつけると、国内における移動の自由までも制限してよいことになってしまわないだろうか。

⇒Wellmanは人権 (human rights)とリベラルな権利 (liberal rights)を区別し、国から国への移動も含めた「充分性」と結びつく移動の自由を「人権」に、国内における無制限の移動の自由を「リベラルな権利」に分類することで応答する。そして、正統(legitimate)な国家は必ずしもリベラルである必要はなく、人権を保護し尊重すればよいので、国内における移動の自由は各国の政治的決定の問題である。一方でWellman自身はリベラルな政治理論家として、市民を自由かつ平等な対等者として扱う要請から「リベラルな権利」として国内的な移動の自由を支持する。離脱(secede)の自由は各人にあるため、もしある集団が国家から離脱して独立すれば、当然離脱後の国への移動の自由は「人権」の持つ充分性の範囲でのみ認められる。(89-90)

3)出国の自由は当然、入国の自由を含意しなければならない。Wellmanが使う結婚やゴルフクラブの事例とは違い、国家の場合に関しては、他の国への入国の自由が保障されなければ出国の自由が無意味なものになってしまう。この議論は結社の自由の重要性や、その国家への関連性を否定しないし、Wellmanが出国の自由を重要なものとして認める以上強力な批判になる。

⇒たとえその出国の自由が、国内で十分なニーズを充足できない絶望的な状況にあるような人のものであっても、それによって入国の自由を認めるように義務付けられるわけではない。たとえばある家族の隣の夫婦が死に、孤児が生じたからと言っても、そこからその家族に養育義務は発生しない。その家族は共同体の中でその孤児が生きられるよう、里親への割り当てや、孤児院への支援などについて「公正な分の負担」をするように義務付けられるが、直接育てる義務が生じるわけではない。国家の場合も、国内で保護を受けられな人がいるという事実から、入国の権利(また入国を認める義務)が生じるわけではなく、あくまで生存や尊厳ある生のために必要な「公正な分の負担」を義務付けられるだけで、それは金銭支援や保護の機関を作ることでも代替できるから、入国の権利を基礎づけるような「移動の自由」の根拠とはならない。(90-94)

 

③出国の自由(a right to exit)

ーYpiの分析では、入国の自由と出国の自由の間に対称性がある(片方を認めるなら、もう片方も認められるという関係性)ならば、入国に関する移民規制が認められるとき、同時に出国に関する移民規制も認められなければならないことになる。入国を規制するための理由付けは同時に出国を規制する理由付けにもなるため、Wellmanは出国の自由の擁護においてはこの非対称性を説明しなければならない。(95)

⇒結社の自由は、成員資格を管理しようとする団体の側と個人の側の二方向から理解され、個人の側もまた結びつきたくない相手との関係を拒否する権利を持っているのだから、団体の外部の者を排除する権利を認めるからと言って、団体から出ていこうとする個人を強制的に留め置く権利がある、ということにはならない。(96)

ーしかし、結社の自由と結社を解消する自由を区別し、結社を解消する自由は契約や公平性などの要請から制限されるかもしれない。実際、Ypiは公平性(正義の要求)に訴え、社会から恩恵を受けているグループが便益を返すことなく出国しようとするような場合に、出国の自由を制限できると述べる。正義の要求よりも結社の自由(とそれに付随する出国の自由)が優先するとは言えないだろう。(96-98)

⇒正義が優先することは認める。しかし1)政治的責務論におけるフェアプレイ論自体に問題がある。利益を単に受けているだけでなく、それを「受諾」していることが必要であり、領土内にいる限り国家の利益供与から避けられないのだから、全ての人が政治的責務を負うとは言えていない。しかしYpi自身も出国の権利を制限されるのが不当に利益を受け、それを返そうとしない人(つまり利益の受諾者)に限定されている以上、この人たちの特別な義務は否定できない。2)金銭の送付などの形で受けた便益に報いればよいため、出国の権利を制限してよい理由にはならない。しかしYpiの議論は不適格な(unqualified)出国の自由までもが保障されるわけではないことを確認させる点で重要。(99-100)

 

 

<コメント>

ーMillerもそうだと思いますが、閉鎖国境論の論者たちは結社の自由とか移民排除のある程度の権利をそこそこの仕方で証明した後、それを覆しうるような道徳的要求から「移動の自由」に関する権利を巧く切り離す形で議論を展開しており、最終的にこの立場に同意するか否かに関わらず、一つ乗り越えるべきポイントを示しているように思います。人権とリベラルな権利の切り分けとかも巧いなあという感じ。

ゴルフクラブと国家は違うやん、みたいな批判を精緻にやったやつをどっかで見た気がするけど忘れた(誰か教えてほしいです)。

ー結社の自由の擁護についてはけっこう甘々というか、まあ一応の権利くらいは導けるよね?程度のものだと思っていて、結局この路線は対抗する道徳的要求をどれだけ潰せるのかにかかっている印象(たぶんWellmanは自己決定権クソ大事や!!って怒るだろうけど)。

ー具体的な批判・疑問①:現状に対する含意としては、やはり移民を受け入れるよう要求することになるのではないか?移民排除の特権(prerogative)が与えられるほどの公正な負担を先進国がしているとは言えないだろうし、それをできていない限り入国を拒否できない気がする。

ー批判②:「結社の自由」について、そこに登場する人や国家はあたかも空間性を持たない、電脳世界の住民のように捉えられていないだろうか。国家の問題になったときに、結局結社の自由という言葉で、その国家が今まで(恣意的に、偶然的に)所有してきた領土や資源をもそのメンバーの所有物として付随させ、それに対する国外の人間のアクセスをも遮断しているという現状が見過ごされている気がする。カント=瀧川的な認識に引きずられている自覚はあるが、そうした占有を潜在的に関係しうる他者の同意なしに行うことはできないと思うし、これは但し書きを前提にするロック主義でも同じではないか?つまり結社の自由の議論を取る場合でも、領有権から切り離された、単なる人同士の結社の自由までしか保証されないのでは?(これけっこう自信ある批判)

ーそういえばWellmanって離脱(secede)の権利を認めていたのか。でもあまりの小規模の離脱だと、独立人と同様の状態になるし、独立人の場合は入国の自由が保障されるべきという筋から行くと、離脱によって他国に余分な負担を押し付けることになるんだろうけど、どう扱われるんだろう?些末な論点だけど。

ー人権の概念は議論なしに進んでるけどええんか?感。まあそんなものなのかもしれないけど。

 

とりあえず次回以降も同じ論文集から読んでいきます。同系統としてMillerから片付けようかな?