明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Fine and Ypi ed. (2016) Migration in Political Theory③

オバーマンの論文です。響きが可愛いですね、おばーまん。

 

ch3. Immigration as a Human Right (Kieran Oberman)

―国内的な移動の自由、結社の自由、職業選択の自由など既に人権として認められているものを認めるならば、我々は~に移住する人権も認めなければならない。人権は絶対的ではないが、例外的な状況を除いて国境管理は不正である。国境内部で行使される基礎的な自由と同程度の保護を国境間の移動の自由にも求める立場である。(32-3)

 

①~に移住する人権とは?

1)道徳的権利。2)人権の利益説:人権は、他者に対応する義務を課すに足るほど重要な、普遍的利益に基礎づけられる。そのため、~に移住する権利が重要な利益であることと、それが他者に対して義務を課すに足るほどであることを論じる必要がある。3)絶対的ではなく制限されうる。4)成員資格を要求する権利とは別である。(33-4)

 

②権利の基礎となる利益

―すでに「人間の自由の権利 human freedom rights」として認められているものと同じだけ重要な利益を~に移住する権利が保護することを論じる。(34)

―国内的な移動の自由が第一に保護するのは、個人的な決定に際して、人が存在する生の選択肢(これは、人生に意味や目的を与える)の全範囲にアクセスする自由があることによる個人的な利益である。こうした選択肢は当然海外にも存在するはずであり、全範囲にアクセスする自由が重要であるならば、他国に移住する自由も当然重要である。(34-6)

―第二に、自由な結社や信頼できる情報の収集のためには国内的な移動の自由が必要であり、そうした政治的な利益が重要である。しかし国際的な問題も政治的関心になりうるように、国外の人とも自由に結社ができ、意見の交換が出来なければならないから、政治的利益は~に移住する権利をも基礎づける。(36)

―これらは訪問権を保障するだけでは足りず、滞在したいだけ滞在する権利を保障する必要がある。滞在だKでは全範囲へのアクセスを保障しないため。(37)

 

②適度な範囲の選択肢(adequate range of options)の保障ではなぜ不適切なのか?(Millerへの批判)

―提供されている選択肢が充分性を満たすのであれば、それ以上を人権として認める必要はないという反論がありうるが、以下のように批判できる。1)国内的な移動の自由については全範囲へのアクセスを保障しており、これが人権として認められていることを説明できない(ベルギーにおける国内的な移動の自由が充分ならば、アメリカは国をいくつかに分割して国内的な移動を規制してもよいということになってしまう!)。2)移動の自由以外も、適度な範囲の選択肢説は不適切な結論を導く。適度な範囲で宗教の選択肢があればユダヤ教を禁止しても「人権」の侵害にならないのか?などの事例。(38-9)

―人々が選択肢に対して関係する仕方は2つある。1)既に自ら選択したり、愛着を感じたりしている。2)今はまだ愛着を持たないが、将来潜在的には欲しうる。宗教の事例のように、自分が愛着を感じる一つ以外は真正な代替手段になりえないとき、適度な範囲を超えたアクセスが必要になる。(40)

⇒愛着についてのミラーの反論:1)特定の人の主観的に強い利益と人間一般の重要な利益は区別されねばならず、後者のみが人権に値する。2)結合を望まれる相手は関係を拒絶できる以上、特定の人とつながることへの利益は不可欠なものだとは言えない。(40-1)

―オバーマンの応答:第一の批判は普遍的な利益と一般的な物への請求権を混同している。特定の人への愛着も、個人の根本的な信念に従って行為することや愛する人と結ばれることは普遍的な利益であるという全ての人が共有するような想定に基づくため、具体的な愛着の対象へのアクセスも保護に値する。例えばエイズの人は、自分の個別的な事情により、特別なヘルスケアを要求するが、この要求が個別的だから人権ではない、とはならない。第二の批判は、人が結合を拒絶する権利を持つ理由をミラーが誤解している。結合の要求が拒絶されうることは、その道徳的が低いことを意味せず、まさに人が誰と結合し、関係するかを決めることができる人権を持つということの結果である。個人が結合を拒絶することと、国家が国境管理によって結合の機会を奪うことは全くパラレルではなく、後者は人の選択の機会を奪っている。(41-2)

―可能性の議論(潜在的に誰かと関係しうる機会があることの利益):1)良心:単に今自分が持つ倫理的信念に従うことだけでなく、人生の意味などの究極的な問いへの答えを探すことに利益を持つ。潜在的な選択肢へのアクセスを妨げられることはこうした答えの探求を捻じ曲げ、真実を届かぬものとする。2)独立:基本的な個人的決定に関して他者に選択肢を決定されないこと(自律)への利益を持つ。3)政治的利益:自分の意見を形成し、関係する情報を集めうるような機会の全範囲にアクセスできなければ、有権者の真正な見解を代表しているとは言えなくなる。(42-4)

 

③批判の検討(文化的価値、分配的正義、大量の移民)

―国家の移民排除権を論証することによって、~に移住する自由の利益に関する議論を認めつつ、それが受け入れ側に義務を課すことができないと論じる路線がありうる。分配的正義からの議論は、移民受け入れによる賃金低下などにより分配的な不正義が拡大することを理由に移民排除を支持する。文化からの議論は、受け入れ国の文化を保持するために移民排除を支持する。両者ともに論争的な経験的主張に依存していることも指摘できる。以下の議論はコストがあると仮定した上での応答。(45-6)

―コストがあったとしても、それが移民規制を正当化するには二つの条件を充たす必要がある。1)コストが深刻。2)コストに対応する受容可能な代替策がない。この2条件を充たさないため、反論は成功しない。他の認められている諸自由と同じだけの重みづけを移動の自由に与える以上、この2条件が必要になる。

1)分配的正義における価値と基礎的な諸自由を比較したときに、充分性を超えて分配的平等の方を優先するのは不適当(右翼の言説が分配的平等への支持を掘り崩すからと言ってその出版を禁じるのはおかしいし、分配的平等の価値のために裕福な人と貧困な人の間に結婚を強制するのもおかしい、等々)。文化の保持のため表現の自由を規制してよいとはならないように、基礎的な諸自由が優先するし、文化的変化を理由に国内的な移動の自由は規制されない。(47-9)

2)再分配政策の強化も可能だし、移民流入が経済的に正の効果を生む可能性もある。言語教育支援などもできる。移民が流入しないように、彼らの母国に経済的な支援や投資などをすることも可能。(49-50)

―先進国のキャパを超えて大量に移民が流入する可能性があるという批判:第一に経験的検証が必要。第二に、そうした懸念によって~に移住する人権の保障という形で権利を保護できなかったとしても、背景的な義務を果たす必要を論証できる点で、この議論に意味がある。たとえ、医療資源不足によって、全員の医療ニーズを今充たせなくても、医療資源を追加したり、人員を増やしたりする背景的な義務が生まれるように、元の人権を実現できないことによってその権利が消えるわけではなく、背景的義務を生み出す。例えば貧しい国の経済成長は、長期的には送り出し要因を小さくするため、そうした支援を背景的義務として負う。(50-2)

 

 

<コメント>

―オバーマンの論証で気になるのはアナロジーの濫用です。国内的移動の自由が人権の位置に値することや宗教的な選択肢への全範囲のアクセスを禁じることが人権侵害になることを所与にして、その論理的帰結として~に移住する人権を論証しようとしている。しかし国内的移動の自由が「人権」かについては、閉鎖国境論者からけっこう批判も来ている。宗教の事例は、特定の宗教の禁止が人権侵害にあたるのは全範囲説(full range view)が正しいからではなく、差別禁止などの要請によるのでは?という感じ。つまり宗教の事例はオバーマンの全範囲説を支持する根拠にできない。

―また、どこまでを「人権」と呼ぶかは、ミラーのまとめの時も言ったように規約的な問題に過ぎないと思っているので脇に置くとして、やはり~に移住する人権の重みづけは問われないといけない。たしかに全範囲説によってある程度の重みづけが~に移住する権利にもあるのはわかるけど、充分性の範囲についてかかる重みづけと、全範囲にかかる重みづけは異なっていて、後者は何かほかの自由と衝突したときにやはり弱めではあると思う。

―ただこれが結論に影響を与えるかはわからない。僕自身は開放国境論の立場は、~に移住する権利について一定程度の理由を与え、それを支持することは簡単な一方、そこまで重くはならない気がしていて、あとはひたすら閉鎖側の論拠を殴り続ける後退戦線なのでは?と思っているので。まあただ、どちらの立場も、自分の側である程度の理由付けをして、相手側の論拠に対して「代替手段がある」という後退戦線を取っているような印象論はあり、比較衡量の基準に関わる議論が大事なのかなあと言う気はしてきた。