明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Fine and Ypi ed. (2016) Migration in Political Theory④

スティルツです。賢い。

 

ch4. Is There an Unqualified Right to Leave? (Anna Stilz)

―出国する権利はある程度自明視されているが、これについて制限(法がない状態に比べると、出国するのにコストがかかるような法;出国の禁止に限らず、出国に税をかけるなども含む)を加えることは正当化されるのだろうか。離脱の権利の根拠は、1)旅行への請求権、2)転居への請求権、3)市民的責務を放棄することへの請求権(請求権:権利を正当化するに足るほど重みのある、強力な個人の利益。対抗する考慮によって打ち消されることがありうるため権利 rightよりも請求権 claimの語を使う)に分かれ、1と2については正しいが、3については正当化されない。そのため、旅行や転居を禁じない形で離脱の権利の射程は限定され、離脱に際して分配的責務を果たすような条件を賦課することが正当化される(これは職業選択の自由が確固とした権利として認められる一方、それが無制限ではなく種々の制限や課税が正当化されることに似ている)。(57-8)

1)旅行への請求権:自律の利益を追求する手段として旅行は位置付けられる。2)自分の生活したい場所で、自分が過ごしたいだけ過ごせることによる利益がある(自律の価値に資する)。3)市民権を放棄する選択肢があって初めて、市民が成員資格に同意して国家の法に従う責務があると言える。市民的責務を強制的に課されることへの免除権について強い利益を持つ。この見解は国家を自発的な結社とみなす。(59)

⇒1と2は正当化されるが、3の市民的責務を放棄する権利は正当化できない、というのが論文の主旨。

※~に移住する権利が含意されるかについては中立的。

 

①旅行と転居への請求権

―行きたいところにどこにでも行ける自由(カレンズ)や動作に対する外的障害の不在という意味での自由(ホッブズ)を基礎とすることは不適当。第一に、権利の体系は移動の制限を含む空間的世界の使用を調整することを目的にしているにもかかわらず、権利の体系があるよりもない方がより自由だと判定するのは説得的ではない。第二に、移動の自由が持つ価値の質の違いを考慮できない。ある移動が個人にとってとても重要であることも、あまり重要でないこともありうるが、その価値が図れないような定式化は不適切。(61-2)

―ほかの基礎的な自由を保護する道具的な価値が移動の自由にある(Oberman)という立場においては、基礎的な自由と基礎的でない自由の間に線を引かねばならず、その線引きに根拠が必要。ロールズに依拠すると基礎的自由は政治的市民が持つ「道徳的人格の二つの能力(個人的自律:善の構想を形成、修正、追求する能力、確定した自分の構想を追求するために十分な手段にアクセスする能力。正義感覚:正義原理を社会の基本構造に適用するための正義の感覚)の適度な発達と完全な行使のために必要な社会的条件」であり、これは制度的な手段として位置付けられる。第一に、自国内で基本的自由が脅かされている時、移動の自由は諸自由のために道具的に必要になる。第二に、国内的な基本的諸自由を根拠づけるような利益それ自体を追求する手段として旅行と転居が位置付けられる。とくに個人の善の構想を実現するのに、国外への移住が必要な場合などの事例(外国人との恋、外国でしか実践できない宗教)。(62-4)

⇒ミラーの批判:適度な範囲の選択肢説。

―適度な範囲の選択肢を超えて、選択肢を提供できていないこと自体によって国家が不正をなすことにはならないという点ではミラーに同意する。私が位置付けられた文脈において、私の選択は形作られているが、それは私の善の構想の追求を妨げているわけではない。しかし、ミラーと違って、国家が国内では適度な範囲の選択肢も提供できないこともあると考える。とくに、a)人が特定の善の構想に既にコミットしてしまっていて、かつb)国境規制がその善の構想の追求に不可欠な選択肢へのアクセスを奪っているとき、これは重要な利益が失われていると見てよい。(64-5)

⇒ミラーの批判:人権を根拠づけるのは一般的利益で特定個人に固有なものはダメ。

愛する人と結合する自由のような、一般的な利益が基盤にある。結果的には少数の人しか行使しない自由だとしても、公正な裁判への権利や亡命の権利のように権利に値するものである。(65)

―こうした利益と対抗するようなコストも考慮に入れられる必要がある。第一に、ある請求権を保護することによるコストがあまりにも高かったり、他の権利を損ねたりする場合は再考が必要。第二に、コストが深刻な場合、請求権を保護しつつもコストを避けるために、権利の範囲を狭く設定することも検討する必要がある。スティルツは脱出の権利と市民的責務を放棄する権利を分離することによって、コストと離脱(請求)権の間の緊張を解決する。(66)

 

②市民的責務を放棄する権利はない

―出国が送り出し国に与える負の影響:1)頭脳流出。2)流出する人材に充ててきた教育費等のロス。仕送りも家族にしか届かない。3)脱出の権利を取引材料に、免税などの優遇措置を自国で得ることを可能にする。送り出し国が高い税を賦課できないことを意味する。これらの負の影響ゆえに旅行・転居の自由がすぐに制限されるわけではなく、何らかの形で市民的責務を果たせばよい。(66-68)

―ロック主義者の正統性の理解に従えば、市民的責務放棄することが出来なければ同意によって国家の正統性を根拠づけているとは言えなくなる。そのため離脱の権利は必要である。

⇒スティルツ:正統性に同意は不要である。単純な利益説(国家から利益を受けている場合、それに対する報恩として市民的な責務を負う)はノージックの批判(利益を受認していなければならない:ラジオのケース)に応答できないかもしれない(スティルツはそれでも、欠かせない利益を享受している場合は自発的な受認の有無にかかわらず責務はあると考える)が、こと技術を持った脱出者(skilled emigrants)の場合は当てはまらない。自発的に魅力的な教育の便益を受認しているから。(68-70)

※ただし受け入れ国が分配的な義務を送り出し国に対して負うことは否定されない。それと同時に移住者も責務を負うだけである。

―自然義務論:それに加え、利益を受認していない場合でも責務を負う。カント法論やロールズ的説明(省略)。こうした自然的義務は制度的に媒介された義務である。正統な国家(少なくとも最低限の基本的人権を尊重している国家)が所有に関わる法や税制を公的に定めて初めて、全員が客観的な形で参照できる法が存在し、こうした法的状態に入り、それを毀損しない義務を万人が負うから、こうした法の下で各人に課された市民的責務を放棄する権利はない。個別性の問題も、既に存在する法的状態を毀損しない義務から応答できる。(70-4)

―脱出する権利は、無条件に脱出する権利と同じではない。市民的責務を負いつつ移住することは可能であり、これは職業選択の自由が他の権利・義務による制約を受けるのと同様である。法外に高額でない限り、正統な国家が出国に課税することは正当化される。(74-5)

 

③構想の制度化と批判の検討

―制度化:1)外国で稼いだお金に対する課税。途上国には世界レベルで課税を行うインフラがないという批判は技術の進歩で回避でき、国家の超領域的な管轄権を肥大化させるという批判も、現状で既になされているから無視してよい。2)受け入れ国が代わりに徴税する。出国時のまとまった課税は旅行や転居の自由に過大なコストを課しかねないので、通時的に課税する方が望ましい。(75-6)

―重国籍の人は二重に義務を負う?:永住している方の国で義務を負い、成人の段階で追加的に市民権を付与されるのを受け入れて市民的責務を負うか、それを放棄するかを選択できる。また移住者が送り出し国に対して責務を負うのは、市民権を変更する時点までの移行期で、市民権を変更し元の責務を果たし終えるにつれて、元の国への責務はなくなっていく。(76)

―道徳的な恣意性への批判:自分がたまたま生まれつく国によって、負う責務(例えば分配的な義務)が変わってくるのは不公平ではないか?

⇒1)積極的応答(スティルツの本来の見解に近い):負担の違いは民主的自己決定という重要な価値を尊重する結果なので、恣意的ではない。2)消極的応答:少なくとも暫定的には異なる負担が許容される。世界的なレベルでの分配的スキームが成立するまでの間は、非理想的な選択として国家レベルでの異なる負担を伴った課税政策が許容される。(76-8)

 

 

<コメント>

―スティルツも賢いなあ。とりあえず、移民正義論ではみんな、一つのセットとみられがちな権利が実は複数の権利の複合であることを暴露し、そのうち一方だけが正当化されるものであり、それだけを権利として保護することの含意を述べる、ということをやっている印象。(ミラーやウェルマンもそういう解体がうまいですよね)

―最後の許容の話は、紙幅がないので仕方ないが、一番気になる論点ではある。やっぱりカンティアンかつコスモポリタンの戦略を取ると移民規制というのはどうしても終局的な状態においては存在しないはずで、それを現実において正当化するのは許容法則以外でありえないと思っている。でも許容法則を魔法の杖みたいに振りかざせるほど、正当化はされていない気もしていて、ここは頑張らなきゃいけない気がする(気がする)。

―あまりこの論文への批判は思いつかない。もちろん正統と言える責務の範囲とか線引きとか、実践的なところでの問題はあるだろうけど方針自体は適切に思える。