明日から本気出す

日々のお勉強をメモしたいです。明日からは本気出します…。

Estlund, D. (2016) Just and Juster

Oxford Studies in Political Philosophyに入ってるEstlundの(難解な)論文です。ひとまず批判もコメントもなしで、訳もぐちゃぐちゃです。まーーーーーじでわっかんねえ。わかんないわかんない~~~~。何が読みにくさの原因なんでしょうね…。Estlundの論文を丁寧にメモして1本読めば読むほど、将来一から読まなきゃいけないEstlundの論文が1本ずつ減る、というのだけをモチベにして頑張る。あととにかく日本語に訳しにくい。マジで反省してくれ。

 

 

全体の見取り図

―おそらく「奴隷制は不正だ」といった、正義・不正義の区分を前提にしたような記述を説明できるような枠組みが適切であるという直観をEstlundが強く持っており、比較主義の道からこうした記述を理解可能か、という視点が底流している。

 

序論

センの比較説:正義/不正義の区分は不要で、複数の選択肢間におけるjuster/less justが分かればよい。正義と不正義とを分ける閾値を問うことにさしたる意味はなく、奴隷制が不正であるか否かも意味のない問い。(9)

⇒奴隷が不正か否かという問いが無意味だというのは、理論として不利なように思える。この直観が正しいなら、我々は正義の理論に、実践的な選択の場面における行為指導以上の何かを求めている。本稿のEstlundも比較説を批判し、不正義についての比較的な判断を充実したものにするためにも、区分化された基準の体系的理論(完全な正義の基準)が必要であると主張する。(10)

―本稿では次の2点について譲歩し、仮定を置く。1)最も正義に適ったこととは、社会が道徳的に選択すべきことである。2)比較のための物差しが充分にあれば、正義の区分についての情報は選択の上で無意味だ。これらは議論のための前提とする。また比較説は次の2要素を含んでいる。1)比較の充分性:選択の上では、正義と不正義の区分は不要である。2)比較の実践性:我々の実践的な選択の局面においては、常にunjust/less unjustの間の選択を強いられ、完全な正義というのは我々の世界のためのものではなく、選択においては役に立たない。このうち前者を中心的に扱い、最後に後者にも触れる。(10)

―語の定義…区分主義(partitionism):正義の理論は正義と不正義の区分に依拠している。また、正義・不正義の区分だけを含み、それ以上の基準による比較を一切含まないような立場を裸の区分主義(bare partitionism)、それ以上の比較を含むようなものを充実した区分主義(rich partitionism)と呼ぶ。比較主義(comparativism)は正義・不正義の区分それ自体を避ける。(10-1)

―比較の情報に基づいた選択において、区分の情報が役に立たないからと言って、完全に比較的であるような正義の理論が、選択のためにすら十分であるとは言えない。なぜなら比較の根拠のためにも区分の理論が必要だからである。認識論は、区分された尺度や、区分を含むような判断を提供する、充実したものさしをより好む。(11)

 

1.分類上の(絶対的?categorical)比較主義と方法論上の比較主義(11-2)

―区分への言及がなくとも、中間的な尺度において、正義の程度を秩序付けられると仮定する(ペアのうち、どちらが正義についてのより大きな違いを反映していて、どれがどれくらいの程度でなのか比較することができることになる)。

―分類上の比較主義:奴隷制は不正であるとか、奴隷制は顕著に不正であるといった判断は無意味であり、正義と不正義の区分を形而上学的にも認めない。中間的な尺度を用いた比較は可能だが、区分を前提にした比較を認めない。

―方法論上の比較主義:存在論的に正義・不正義の区分があるか無いかに関わらず、理論化に際しては完全に比較の言語を用いるべきである。方法論的比較主義は、比較の充分性と方法論的実践主義から導かれる。1)方法論的実践主義:合理的な社会選択を促進する仕方で理論化すべき。2)比較の充分性:合理的な選択のためには比較だけで完全に充分である。3)方法論的比較主義:正義と不正義の区分ではなく、比較の観点から理論化すべきである。

⇒Estlundの主張:1)方法論的実践主義と2)比較の充分性から3)方法論的比較主義を導けない。

 

2.正義の尺度 (13-4)

訳語:ordinal序数、ordering順序付け、rank(ing)順位(付け)、amount量

―比較に際してどれだけの情報を含んでいるかによって、3つの種類の尺度がある。1)序数ordinal:単なる順序付け以上の情報を含まない。2)距離interval:順位と量の中間的な尺度。AB間とCD間の距離についてどちらが大きいか、またAB間の距離とCD間の距離の比率などは、比率の尺度のように比較することができるが、その距離の量について表現することができない。客観的な0地点についての情報を含まない。時間も始点終点がなく、客観的な0地点がない以上距離的な指標である。3)比率ratio:順序付け、順位付けだけではなく、客観的な0地点や、意味のある比率についての情報を含む。このうち序数的尺度が最も少ない情報で、比率的尺度は最も多くの情報を含み、その中間に距離的尺度がある。

―正義の尺度も序数、距離、比率のいずれかであるが、比率の尺度は客観的な0地点や区分(partition)を含むから、比較主義においては序数か距離の尺度のみしか使えない。後者の方がより豊かな比較を可能にするが、より多くの情報を要する。序数的順序付けだけができればよい序数的比較主義と、二つの選択肢の間の不正義の距離を比較することができる距離的比較主義に分けることができる。

 

3.より正義に適っていること(Juster)の理論:序数的、距離的比較主義の限界(15-6)

序数的比較主義の特徴:a)正義・不正義である、(という表現)はない。b)~よりとても(much more)正義・不正義である、はない。c)かなり正義・不正義である(highly just, gravely unjust)、はない。d)ほぼ正義である(nearly just)、正義から遠い(far from just)、はない。e)ほとんど同じくらい(nearly as)正義・不正義である、はない。

⇒例えば、100%成功する選択肢と、それより2倍正義に適った帰結をもたらすが成功の確率が50%の選択肢を比較して、それが同じくらい良いものである、という判断は、単純な序数的正義の下では不可能になる。確率を組み込んだ計算すら不可能にしてしまう。

距離的比較主義:先述のa,c,dは依然として特徴としてもつ。正義・不正義という区分が存在しないから。またXとZの距離はXとYの距離の「何」倍大きいかという判断についても距離的尺度においてはおよそでしか測れない。

 

4.正義は効用のようなものではない(16-8)

―効用の場合、効用があると判断される心理的状態の認識問題と、効用の個人間比較問題などから、尺度として順序付けが好まれるが、これは正義の尺度については適用されない。1)正義は一つの社会(これは地球を一つの社会とみなすことを排除しない)に適用されるのだから、効用とは違って、個人比較問題に悩むような認識上の問題はない。2)効用があるとされる心理的状態をどのように知るのか、という認識論上の問題も正義の尺度においては無関係である。3)正義は仮想的な選択者、不偏的な観察者によって選択されるだろうものであり、効用において実際の選択者の心理的態度を同定する困難は正義の問題においては適用されない。普遍的な観察者の効用の場合運に対する順位付けを導入することは、複数の確定的状態の間の、より強い距離的情報を導入することになる。運はそれ自体としては他の状態や運と比べてより正義に適っていたり、いなかったりするものではないから、比較的正義の上で順位付けの考慮からは外れる(形而上学的な主張)。また、運の序数的順位付けなるものがあったとして、距離的情報を含むことになる(方法論的主張)。そのためまともな比較主義は距離的比較主義にならざるを得ない。

※3は最高に意味が分からないのであとで見直す。

 

5.正義は高さのようなものか?(18-20)

―「奴隷制は不正だ」というような記述を比較主義の枠組みの中で適切に理解できる方法はあるのか?たとえば、高さの場合、「~という建物は高い」という記述を比較主義の枠組みでも理解できる。統計的文脈における閾値=その記述が想定する比較対象の平均値などとの比較を前提に、「高い」という区分主義的な形容詞を理解することができる。これと同様に正義・不正義についても理解可能。

⇒問題点。1)恣意的な比較対象の設定に対して脆弱である。奴隷制は不正である、という記述が正しいかどうかが比較する対象に依存してしまう点で不適切であるし、人々が処遇されるあらゆる可能性を考慮すると、奴隷制が常に不正であるなどと確定的には判断できない。2)比較対象を、実際人々が処遇されてきた仕方に絞るとしても、やはり文脈に依存してしまうのはおかしい。全員が奴隷だったとしても、奴隷制は不正のはず。

 

6.区分の種類(20-1)

区分にも床、天井、閾値、トグル(裸の区分)といった種類がある。

1)床:0地点があり、0より下では比較が存在しないが、上では比較が存在する。例えば高度や強度など。高度や強度があることと、ないこととの間に明確に区分がある。正義の文脈においては無関係。

2)閾値:重要な0地点や始点が存在し、その上でも下でも比較が存在する。例えば富。正の富も負の富も存在し、正負どちらも程度の差がある。正義の文脈においては、閾値より上が正義、下が不正義になる。

3)天井:完全perfectionないし満タンfullnessの地点と比較とが存在する。純粋さ、垂直性、テストのスコアなど。

4)トグル(二元的区分):比較の程度は存在せず、ある基準や性質を完全に満たしているか、全く満たしていないかのどちらかであるような事例。例えば妊娠しているか否かなど、二元的に判断できる事例。

―センは「主要な区分grand partition」の語で、明示的に天井の区分を想定している。また不正義の間の比較を想定する点で、二元的区分のことを意味していない。

 

7.正義はどのようなものになるか(比較を好むようなものにはならない)(22-3)

―方法論的な根拠に基づく比較主義の擁護:正義が区分される種のものだろうとそうでなかろうと、比較的な情報さえあれば選択においては十分である。センは、一番高い山が何かを同定せずとも、二つの山のどちらが高いか比べることができるように、完全な正義など分からずとも、二つの社会を比べることは可能だと述べる。

⇒批判:1)比較の基準が区分に基づくことがある。純粋さは、完全な純粋さからどれだけ離れているかを通じて測られるものだろう。天井の区分を前提にしている。2)比較を前提にしない区分の存在を無視している。真実や、算術的な等しさのような二元的区分はその例にあたる。真実か否かは二元的に判断され、部分的に正しいというような程度を織り込んだ記述は妥当ではない。

―批判で挙げたように、正義もこうした区分を前提にすることになる。

 

8.平等の事例(23-5)

―分配的平等は区分を前提にする概念である。その上で、平等ではない範囲において、不平等な分配についての順位付けを認めないかもしれない。

―分配的な不平等を測り、それぞれに順位付けをする手段は多くある。ひとまず、何ら単位を持たないただの数字のセットであるA1(100, 100)A2(200, 100)B1(100, 90, 10)B2(100, 20, 10)C1(2, 1)C2(200, 100)D1(100, 99)D2(100, 50)を使って考える。A1はA2よりも平等である。算術的な等しさがA1にはあり、A2にはないことからもわかる。しかしBとCのような事例では、比較対象のどちらにもある程度の算術的な不平等が含まれており、自明に不平等の程度の違いを測ることはできない。つまり、純粋に算術的で、非規範的な不平等の測定なるものはありえない。

―しかし、だからといって不正義の程度を測るものが全くないということにはならない。不平等の規範的な測定においても頂点には完全な算術的等しさが存在する。完全な平等が正義であるなら、不平等が不正義の意味するところであり、規範的な不平等が0であることが、不正義が0であることの意味するところである。

―別の立場としては算術的平等主義とでも呼べるものがある。この立場は、不平等の程度ではなく、算術的な平等の関係に関心を持つ。算術的な平等が正義の指すところであり、先行する規範的な不平等の測定から導かれるものではない。法に従っているか否かが二値的に捉えられるのと同様に正義も判断され、不平等や不正義の程度なるものはない。⇒たいてい、不正義には程度があると考えるので受け入れがたい。

―正義を平等とみなす立場は、不平等を測定する基準を平等主義ではない別の基盤に求めなければならない。平等主義それ自体は、ある測定の基準を別のものより良いとみなす根拠とはなりえない。この種のことは、平等だけでなく充分性などにも適用できる(充分性を満たさない状況の中で不正義の程度を比べるには、充分性とは別の価値に訴えることが必要)。

〇まとめ:正義が区分ではなく比較を認めるということが比較主義を利することにはならない。我々はいくつかの事例においては算術的平等主義のような裸の区分主義を反直観的だと思う一方で、奴隷制が不正だという判断に現れるように、比較主義に反する確信を持っている。

 

9.余分のspare区分主義(26-7)

―D1,2のように算術的にも明白に一方がより不平等であることが分かる事例もある。D1よりD2の方が不病だという判断は、算術的不平等の比較的な測定においても、規範的な分配的不平等の測定においても、満たさねばならない結論である。ここからこの領域(正義の理論ないし政治哲学?)における理論構築の認識論において重要な含意を導ける。D1の方が平等だという判断は何らかの算術的不平等に関わる比較理論から導かれるのではなく、前理論的に、事例をただ凝視する(eyeball)ことによって導かれる。BCの場合はただ凝視するだけでは解決できないが、Dではそれが可能である。このように比較の理論に先立って判断できる事例(奴隷制は賃金格差よりも不正)がある一方で、できない事例もある。

―センは、何ら超越論的な正義の説明から、相対的な正義の比較的な判断を導いていない事例を提示している(飢饉、公正な裁判なき投獄、医療へのアクセス不足など)。しかしセンは、これらの事例が比較的正義の一般的説明から導かれるとも言っていない。これらはただ事例を凝視することによってもっともらしいと判断されるだけである。正義の理論によって受容されることと、正義の理論から導かれることとは違うのであって、センの事例は比較主義を支持する議論とはならない。

―区分と、前理論的に導出される比較(凝視による比較)のみを認めた立場を余分の比較主義と呼ぶ。この立場では凝視以上の比較の基準を持たないし、正義の程度によって選択肢を比較してより良い選択を促すということもない。

―また凝視の比較主義は、区分を伴うものであれ、そうでないものであれ、追加的な比較主義的な内容を持つ凝視に基づく知識は、正義の理論に依拠するわけではなく、それに先行している。

 

10.豊かさが第一(27-9)

―次なる比較主義の戦略:凝視の手法による比較主義的情報を蓄積し、それに類推や一貫性を用いて推論を重ねることで、より豊富な凝視的比較のセットを得ることができるというもの。区分なしに比較主義を一貫させることができる。

⇒批判:1)算術的な平等、真理、一貫性についての凝視的判断は区分的基準の解釈そのものであり、区分を前提にしている。完全な算術的平等という区分された定義を持っていなければ、何かが他のものよりも不平等であるという判断をできない。区分の前提なく凝視的な事例を導入できない。2)正義に関する前理論的判断は、区分を前提にしている(例えば、奴隷制は不正だ)。これは比較主義の枠組みでは許容できないはず。

―ここで問題にしているのは、どのようにしたら比較が所与のものになるのか、である。確かに一度比較が与えられれば、それ以上の区分は実践的な選択には不要であるという前提を置いているが、その前提は比較がどのように与えられるかを説明しない。そして、道徳的認識の結果として、我々が選択のために必要とする比較的情報を得る唯一の道は、区分を含んだ形式の正義に関する熟慮された判断を使って推論することである。正義についての区分的な判断を伴うような正義の理論は、必然的に比較主義ではありえない。また、こうした区分された前理論的判断や、理論に基づく比較を斥けながら比較主義を堅持し、乏しい比較だけしかできないようにする理由はないので、やはり正義の比較理論は支持できない。

 

11.比較主義と保守主義(29-31)

―センの比較主義の第二の目的:現実主義的な理論を求めること。

方法論的保守主義:正義の理論は、あまりにも遠く離れた未来の達成になったり、現状からかけ離れていたり、あまりに達成困難な基準を掲げるべきではない。

実践的保守主義:現実からあまりにかけ離れた社会的変化は賢明ではない。

⇒実践主義か(本稿では否定しない)、実践的保守主義か、方法論的保守主義が実践主義と実践的保守主義の前提から導かれるという推論か、いずれかを否定することによって、方法論的保守主義を否定できる。実践主義を前提にし、選択が保守的であるべきだとしても、そこから理論も保守的であるべきという結論は導かれない。今は実現が難しそうでも反省の末、実現できるかもしれないような選択肢を事前に排除することはできない。

⇒また方法論的保守主義に利点があったとしても、比較主義の擁護にはならない。実現には程遠いということで完全な正義の基準が無価値となるならば、完全に比較主義的な枠組みにおいて実現から遠く離れている正義さ(justness)も無価値であり、これは比較主義を利することにはならない。この時問題にされているのは区分主義それ自体ではなく、完全な正義なる実現に遠く離れたものについて理論化をする時間の無駄である。そのため、区分主義に対する比較主義の優越性ではなく、実現がそう遠くない、基準より下の領域における比較を助けてくれるかどうかが関心になっている。しかし区分主義を前提とした凝視的な確信こそが、そうした基準以下の領域における比較的判断を支えていたのであり、そうである以上方法論的保守主義もまた区分主義を支持する議論へとならざるを得ない。